一九九六・五・一九 使徒言行録 1章12節~26節 「備えて待ち望む」  本日は一章の一二節からお読みいたしました。その冒頭には、「使徒たちは、 『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た」と書かれています。 彼らはエルサレムに戻り、エルサレムに留まろうとするのです。なぜかと言いま すと、イエス様が、エルサレムから離れないように、と命じられたからです。 「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちな さい(四節)」  エルサレムに留まるということは、彼らにとっては決して望ましいことではな かったはずです。彼らのほとんどはガリラヤ人です。ですから、エルサレムに留 まる必然性は本来なかったはずなのです。しかも、エルサレムは、キリストを十 字架にかけたユダヤ人の敵意が渦巻いているところであります。彼らにとって、 そこは非常に危険な場所でもあるのです。そして、ユダヤ人社会の宗教的支配層 の権力は絶大なのです。彼らのような力ない凡人がどんなことをしても、どれほ ど頑張ったとしても、変わりようのない現実がそこにあるのです。そのことは彼 ら自身が一番よく知っているのです。エルサレムは、かつて彼らが権力に屈して キリストを捨てた場所でありました。恐怖に屈して、主を見捨てた場所でした。 いや、自分自身の内にあるエゴイズムに屈して、自分の罪深さと弱さを暴露した 場所がエルサレムだったのです。そこにイエス様は留まれと言われたのでした。 それ故、彼らは帰って行ってエルサレムに留まったのであります。  しかし、彼らは、主の命じられたこととして、しぶしぶ従ったのではありませ ん。ルカによる福音書によりますと、なんと彼らは「大喜びでエルサレムに帰っ た」と言うのであります。(ルカ二四・五二)なぜでしょうか。彼らには神様の 約束が与えられていたからであります。待ち望むべき約束が与えられていたから であります。「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束された ものを待ちなさい(四節)」父の約束とは、聖霊が与えられるという約束であり ます。彼らがやがて神の霊に満たされるということです。神の霊が彼らを通して 力強く働き始めるということです。イエス様は、そのために、エルサレムに留まっ て待つようにと言われたのです。  彼らは、現実の自分たちだけを見ているならば、そこに一縷の望みもないこと を良く知っていました。しかし、彼らは期待すべきお方を知っていたのです。彼 らには期待がありました。待望する人々でした。現実は厳しいのです。しかし、 彼らは喜んでいます。彼らの現実を越えたところに期待があるからです。聖霊が 降るということ、神の霊に満たされるということ、神様が彼らを通して生きて働 き給うことは、彼らの経験を明らかに越えています。しかし、彼らは自分たちの 経験に縛られてはいませんでした。経験を越えたところに彼らの期待があったの です。  私たちは彼らの姿をよく見なくてはなりません。期待をもって待ち望むことの できる人は現実に負けません。そこに留まることができます。逆に、自分の経験 したところがすべてだと思っている人は惨めです。キリスト者でありましても、 自分の小さな経験からしか信仰の世界を判断できず、もはや何も期待しなくなっ てしまった信仰者は本当に哀れです。聖霊を待ち望むということは、明らかに私 たちの思いを越えた方を待ち望むということです。聖霊の満たしを求めることは、 私たちの経験を越えた方に満たされ、その方が生きて働き給うことを求めること であります。だから期待して待ち望むのです。どうせ私はこんなものだ。信仰生 活なんてこんなものだ。教会はこんなものだ。そのように思った時に、もはや使 徒言行録は私たちとは縁のない書物となります。こんなものではありません。私 たちは、まず彼らの姿を通して、神に期待し神を待ち望むことを学ばなくてはな りません。 ○  さて、彼らは、期待して待ち望むことのゆえに、具体的にはどうしたのでしょ うか。一三節をご覧ください。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋 に上がった。」何のために上がったのでしょうか。祈るためです。一四節にはこ う書かれています。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄 弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」彼らは祈りました。熱心に祈りまし た。ある翻訳では、「祈りに専念していた」となっています。彼らの待望は、祈 りとして具体化されました。イエス様は「待ちなさい」と言われたのです。しか し、期待して待つことの具体的な形は「祈り」です。期待する人は祈ります。期 待を持たない人は祈りません。待望が熱心な祈りとして具体化されていくために は、過去の経験やそこからくる諦めという固い殻を打ち破らなくてはなりません。 彼らが固い殻を破って祈りに専心できたのは、天に上げられた復活のキリストを 仰ぎ、父の約束に心を向けたからであります。ひたすら神に目を向けたからであ ります。  そこにおいて心を合わせて祈っていた人々のリストが簡単に記されています。 まず、イスカリオテのユダを除く十一人の使徒の名前が記されています。それは、 順番は異なっていますが、ルカによる福音書六章一四節以下のリストと同じです。 改めてここを読みますときに、その選びの多様性に驚かされます。熱心党のシモ ンがそこにいます。熱心党とは、一世紀初頭に現れたユダヤ民族主義者の戦闘的 分子です。右翼の過激派です。一方、マタイはもと徴税人です。祖国を売り、ロー マの手先となって同胞を苦しめていた売国奴です。どうしたって一つになれない 人々なのです。しかし、そのような人々が集まる中、もはやイエス様が見えるお 方としてはそこにおられないのに、彼らは心を一つにして祈っています。驚くべ き姿です。そこには、人間的な誇りや奢り高ぶりが打ち砕かれ、ただ神への待望 のみがある集まりゆえの一致があるのです。  また、そこに婦人たちについて言及されていることも注目に値します。婦人た ちが弟子の群れに加わったことは、既にルカによる福音書に記されておりました。 (ルカ八・二‐三)しかし、当時の社会的状況において、これは決して当たり前 のことではなかったのです。私たちは、女性の社会的地位が著しく低かった社会 を思い描かなくてはなりません。多くの場合、女性は人間の数に入りませんでし た。また、それは宗教的な世界においても同じです。ユダヤ人社会において、女 性は宗教的に非常に軽んじられたのです。当時の敬虔なファリサイ派の男性が生 涯を通して捧げる感謝の祈りの一つは、「天の父よ、わたしは女に生まれなかっ たことを感謝します」という祈りでした。それが、当時の女性を取り巻く宗教的 な状況だったのです。  ですから、ここで使徒たちと婦人たちとが心を合わせて祈っていたというのは 驚くべきことなのです。彼女たちが、使徒たちと同じように、聖霊の満たしを求 め、神の霊の働きを期待して祈り求めているということは、決して当たり前のこ とではなかったのです。しかし、ここに私たちは注目すべきであります。その時 代において、人は様々な評価と判断の対象となります。他人が評価し、自分もまた自分を評価し判断いたします。しかし、そのような人間の評価や判断は、神様が霊に満たして用い給うこととは無関係であるということを私たちは知らなくてはなりません。ファリサイ派の人がなんと言おうと、女性であっても神の霊に満たされて、神の器として神の働きのために用いられる時代が来たのです。また、それと同じ事が、他の人々についても言えます。お年寄りについても言えます。障碍者についても言えます。病弱な人についても、過去に傷を持つ人についても言えます。皆、どのような人であっても、神への期待を持ち続けて祈るべきです。神はどのような人をも聖霊に満たして用い給うことがおできになるのです。いやむしろ、神の力は弱いところにこそ現れるのであります。  そして、そこには、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちがいました。彼らは 最後に書かれています。キリストとの肉親としての関係は、なんらそれ自体重ん じられることはありませんでした。ただ神のみに心が向けられる時、一切の人間 的なものは後ろに退くのであります。 ○  さて、彼らが共に集まり、祈り初めて数日が経った頃でしょうか、既にそこに は一二〇人ほどが集まるようになっていました。(一五節)そこでペトロが具体 的な一つの提案をいたします。それは、イエス様を裏切って、捕縛の手引きをし たユダの代わりを選出しようということでありました。今日は、ユダについては 詳しくお話しすることはいたしません。本日お読みしたところには、ユダが不正 を働いて得た報酬で土地を買い、その地面にまっさかさまに落ちて、死んでしまっ たということが出ています。マタイによる福音書に書かれているユダの最期(マ タイ二七・五)とは少々異なった話しになっていますが、ユダの最期については 様々な言い伝えがあったのでしょう。  いずれにしても、ここで大切なことは、ペトロの提案の内容です。イエス様が 一二人を選ばれて使徒とされました。その内欠けた一人を補充しようとしたとい うのは、明らかに将来に対する備えであります。イエス様が一二人の使徒を選ば れました。一二人が選ばれたというその数字が意味するところは、明らかにイス ラエル一二部族と関係があったと言えるでしょう。つまり、そこには、新しい契 約のもとでの真のイスラエル、神の国における真の神の民の完成が象徴されてい たわけです。ですから、ここで一人を補充しようとしたペトロとその他の弟子た ちは、明らかにやがて完成する神の民の姿を既に見ているのであります。まだ見 ぬ教会の未来の姿を既に心の内に見ているということなのです。  そしてまた、ペトロの提案は彼らの内に既に宣教のビジョンが与えられ始めて いたということをも示しています。ここで新しい神の民における一二使徒は、復 活の証人でなくてはならないと言われています。「そこで、主イエスがわたした ちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたし たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、 わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。(二一‐二二節)」や がて、キリストが宣べ伝えられていく。多くの人々が仲間に加えられていく。そ の時、大切なことは、伝承が変わることなく保持されるということです。そこで 一二人目は、誰でもがその任に当たれるのではなくて、それに相応しい人が選ば れなくてはならないということなのです。  彼らが、神の民の完成した姿を思い、宣教の働きが進められている姿を既に先 取りして見ることができたということは、まことに驚くべきことであります。一 二〇人ほどの人が集まっていた。これは、多いように思えますが、それでもせい ぜい私たちの夏期修養会に集まる人々の数ほどです。一方、当時のパレスチナ地 方にユダヤ人だけでも四〇〇万人いたと言われます。彼らの頭の中には、当然の ことながら、まだ異邦人伝道などという概念はありません。しかし、それにして も、その辺りのユダヤ人だけ数えても四〇〇万人もの人がいるのです。彼らこそ、 キリストを証しし、宣べ伝えるべき人々です。しかし、何も持たない、力もない、 凡人ばかりの一二〇名ほどの集団に、いったい何が出来るというのでしょう。常 識的に考えるならば、将来的な展望などは、まったく持ち得ないはずなのであり ます。  しかし、彼らは来るべき将来を確かに見ているのです。そして、具体的な備え を始めるのです。なぜでしょうか。祈りが具体的な行動を産み出したのです。つ まり、彼らが神のみに期待し、待ち望み、祈り続けた時に、具体的な導きを得た のであります。人がへりくだって、真に生きて働き事を成すのは人間ではなくて 神様御自身であることが本当に分かった時、人は人として具体的に為すべきこと についての導きを得るのです。それが、ここでは使徒の補充ということだったの であります。  最終的な一人はくじ引きで選出されました。くじによって神の御心を尋ねると いうのは、この後には出てきません。ですから、一般化できることではないでしょ う。現代の私たちは安易にくじ引きで事を決してはならないことは言うまでもあ りません。しかし、彼らの場合にしても、決して出鱈目にくじ引きをしたのでは ありません。彼らは御心を尋ね求めながら注意深く二人の候補を選んだのです。 そして、最終的な判断においても「すべての人の心をご存じである主よ、この二 人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください」と祈りつつくじを引 きました。大切なことは、備えの段階における一つ一つのことの中にも、キリス トの御心がなることを求めたということです。こうして、マティアという人が使 徒として選ばれたのでした。 ○  今年もペンテコステが近づいて来ました。今週は、特に、聖霊降臨に至るまで の弟子たちの姿を思いながら過ごしたいと思います。そして、私たちの教会のあ り方、信仰生活のあり方を省みたいと思うのであります。いつの間にか、自分の 力が神のために何か事を成すかのように考え、いつも我意に満たされていないで しょうか。そのような傲慢さの故に、結局いつも失望したり落胆したりして、も はや新しい事を何も期待できなくなっているようなことがないでしょうか。私た ちは、もう一度、神への期待を新たにし、神の霊の満たしをひたすら求め、祈り 続ける者でありたいと思います。そして、その祈りの中で具体的な導きを得、神 の御業への備えをなしていく者でありたいと思います。