一九九六・九・一五 使徒言行録 7章44節~60節 「最初の殉教者」  先週、ステファノの長い説教の前半をお読みし、そこに語られていることは、 神の真実であり、人間の頑なさであると申し上げました。人の救いのために行動 し続けられる神に対して、その恵みを拒み続け、神に逆らい続ける人の姿。最終 的に、神はキリストを送られたのに、その恵みをなお拒否している人々の姿を、 聖書の中から浮き彫りにしていたのが、この説教でありました。その結論は、本 日お読みしたところに、明確に言い表されています。「かたくなで、心と耳に割 礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなた がたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。(五一節)」 これは、神の恵みに対する私たちのあり方をも問い直す言葉であろうかと思いま す。 ○  さて、実はこのステファノの説教には、もう一つの主題が織り込まれておりま す。それは「神殿」についてです。ステファノは、「聖なる場所(神殿)」をけ なしたということで訴えられていましたので(六・一三)、そのことにも触れて いるわけです。  ステファノは言います。「ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の 住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした。 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。こ れは、預言者も言っているとおりです。(四六‐四八節)」そう言って、イザヤ 書六六章一節、二節を引用するのです。  サドカイ派の人たち、祭司たちは神殿宗教に仕えている人々です。しかし、彼 らの現実には、生ける神との交わりの生活はありませんでした。神殿は神を礼拝 する場所です。神殿は神の替わりにはなりません。神殿宗教そのものは、神御自 身の替わりにはなりません。神は神殿に住んでおられるわけではないし、神は神 殿に縛られているわけでもない。もっと大きなお方なのだ。それがステファノの 言っていることなのです。そして、それは彼の説教の初めから語られていたこと だったのです。  思い出してください。ステファノがまず言及したのは、アブラハムという人物 でした。神はアブラハムに出会われました。それは、アブラハムがまだエルサレ ムから遠く離れたメソポタミアにいた時でありました。そこに栄光の神が現れた のです。(七・二)アブラハムは偶像礼拝の世界のただ中で神に出会ったのです。 いや、神がアブラハムに出会ってくださったのでした。  次に、彼が語ったのはヨセフという人でした。彼は一二人の兄弟の末から二番 目でありました。彼は、お兄さんたちにねたまれ、エジプトへ売り飛ばされてし まったのです。彼の苦難の人生が始まりました。しかし、エルサレムから遠く離 れたエジプトで、神からまったく離れているように見えるその世界の中で、悲し みと苦しみの生活のただ中で、神はヨセフと共におられたのです。「しかし、神 はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで 恵みと知恵をお授けになりました」と聖書に書いてある通りです。  その次に書かれているのはモーセについてでした。イスラエルの民は、その頃、 エジプトにおいて奴隷の生活をしていました。嘆きと叫びの毎日でありました。 その時、神はエジプトにおいて、既に働いておられたのです。現実に目に見える 形で救いの出来事が起こる遥か以前から、神は働いて準備しておられました。そ うです。モーセという人物を準備しておられたのです。  モーセが民の解放者として、歳四〇にして立ち上がった時、彼は人々から拒ま れ、挫折を経験いたしました。「モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救 おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解 してくれませんでした。(二五節)」エジプトの王宮の生活を放棄し、全てを投 げ捨ててせっかく立ち上がったのに、人々には受け入れられなかった。この挫折 は大きかったと思います。彼はその後、四〇年間、ミディアンの荒れ野で羊を飼っ て生活することになるのです。かつて己の人生をかけて、使命感に燃えて立ち上 がった人物が、今は人々から離れて、ひっそりと羊を飼って暮らしておりました。 まったく夢も希望もない四〇年間でありました。しかし、そのミディアンにおけ る現実の中で、神はモーセに出会ってくださったのです。シナイ山に近い荒れ野 において、神はモーセに語りかけたのでした。何と言ったでしょうか。「履物を 脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。(三三節)」そんなところで 生き続けていて一体何になるのだろうと思えるようなその彼の生活の場所を、神 様は「聖地」と呼ばれたのでした。そして、その神様は、「わたしは、エジプト にいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを 救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう」と言われるので す。  ステファノは、生ける神の現実について語ります。私たちがこうして礼拝して いますお方は、私たちの現実の中で生きて働き給うお方です。しばしば悲しみを 覚え、虚しさを覚えざるを得ない私たちの現場に、神はおられるのです。こんな ところに神はおられないと思えるようなところに神はおられ、そこで人は神に出 会うのです。時として、こんなところで生き続けて何になろうかと思えるような 生活の場が、実は神の「聖なる地」なのです。そのことを私たちは決して忘れて はならないのであります。 ○  以上のことを、ステファノは聖書を通して人々に語り聞かせました。そして、 神が自分自身にも伴い給うという事実を身をもって証ししたのです。それが彼の 最期の証しとなりました。それが今日お読みしました、彼の殉教の場面です。  彼は、人々の憎しみのただ中に立っています。自分の命を奪おうとしている人々 の怒りと敵意の真ん中に立っているのです。しかし、そこで彼は天を仰ぎ、神が 共にい給うことを見たのでした。「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノ に向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光 と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っ ておられるのが見える』と言った。(五四‐五六節)」この暗黒の場面の中に、 栄光の輝きに満ちた天が開けるのです。罪と悪と死のみが支配しているように見 える現実の中に、神の世界が開けるのです。  ここで、ステファノが特に、「天が開いて、人の子(イエス)が神の右に立っ ておられるのが見える」と言っていることは重要です。彼は、ただ神の栄光を見 たのではありません。そこに、復活のキリストを見たのです。これは何を意味す るのでしょうか。  ここに出てきます「神の右に」という言葉は、私たちが使徒信条においても言 い表している言葉です。しかし、ここで言われていることは、ただ単に場所のこ とではありません。それが意味するのは、「キリストがいる場所」ではなくて、 「キリストの働き」なのです。王国において、ある者が王の右の座に着いている と言われる場合、彼が王から全権委ねられた者であることを意味します。同様に、 キリストが神の右におられるということは、復活されたキリストが、父なる神の 全権を委ねられたお方として、支配しておられることを意味するのです。キリス トが復活された後、弟子たちにこう言いました。「わたしは天と地の一切の権能 を(父なる神から)授かっている。(マタイ二八・一八)」まさに、ステファノ が殺されようとしている時、彼が見た幻は、キリストが父なる神から全権を委ね られた者として支配している姿でありました。人の目から見るならば、支配して いるのは人間の力です。暴力です。憎しみと敵意が支配しているように見えるの です。力ある者が力ない者を支配し、まさにその支配によって踏みつぶし、抹殺 しようとしているようにしか見えない場面です。しかし、ステファノはその現実 の中で、キリストが支配しているのだという事実を信仰の目をもって確かに見て いたのであります。  「しかし、人々は変わらなかったではないか。奇跡は起こらなかったではない か。彼は殺されてしまったではないか。罪の力の方が結局は強かったではないか。 キリストの支配はどこにあるのか。」あなたはそのように言われるでしょうか。 しかし、ステファノが見たことは間違っていませんでした。確かにそこにキリス トの支配は及んでいたのです。  まず第一に、キリストの支配は、ステファノの心の内にありました。ステファ ノは、石を投げつけられ、ぼろぼろにされてまさに息絶えようとしていた時、ひ ざまずいてこう祈ったのです。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」 こう大声で叫んで死んでいきました。この言葉は、十字架上のキリストの言葉を 思い起こさせます。キリスト御自身も、敵意と憎しみの中で十字架にかけられ、 死の苦しみの中にあった時、このように祈られたのでした。「父よ、彼らをお赦 しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ二三・三四)」今、 このように死んでいかれた方の御支配がステファノの心の内に及びます。彼の心 は敵意の中にあって敵意に支配されてはいません。罪の力の中にあって、罪に支 配されてはいないのです。聖霊を通して、キリストの支配が及んでいるからです。 彼は、聖霊に満たされてそこに立っています。聖霊に満たされるとは、キリスト の支配が完全に及ぶことに他ならないのです。  誰が罪の思いから私たちを解放することができるのでしょうか。誰が私たちの 心を造り変え、私たちの人生を造り変えることができるのでしょうか。誰が私た ちをキリストに似たものとすることができるのでしょうか。私たちは自分の心を さえ治めることのできない者であることを認めなくてはなりません。私たちの心 を治めることのできるお方はキリスト御自身です。だから聖霊に満たされること を私たちは求めるのです。外側からではなく、私たちを心の内側から完全に御支 配いただくためであります。  第二に、キリストの支配は、ステファノの命の上にありました。彼らはステファ ノの肉体を石をもって打ち砕こうとしています。彼らはステファノの肉体を滅ぼ すことはできるでしょう。しかし、ステファノの内にある永遠の命を奪うことは できません。その命は、キリストの支配のもとにあるからです。罪の力、死の力 は、彼の持つ永遠の命を奪うことはできないのです。だから、彼は最終的に、 「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言って死んでいくのです。  私たちが生きている状況はステファノが立っているところとは随分違うように 思えます。しかし、罪と死の力のみが支配しているように見える世界に私たちも また生きています。例えば、人が私たちを殺そうとしていなくても、病原菌やガ ンが私たちの肉体を滅ぼそうとはするでしょう。病気が私たちを殺しにかかって くるでしょう。あるいは様々な形における罪の力が私たちを滅ぼしにかかってく るでしょう。考えて見れば、老いるというプロセスも、死の力が私たちの肉体と 精神を蝕んでいく過程に他なりません。確かに、私たちの現実は、罪と死の力の みが支配しているように見えるのです。  しかし、ステファノはそこにキリストの支配を見たのでした。もし、私たちも また、キリストを受け入れ、キリストの御支配を受け入れたのなら、私たちは単 に罪と死の力のもとにあるのではありません。キリストの支配のもとにあるので す。キリスト者はキリストの御支配の内にあるのです。そのことを私たちは忘れ てはなりません。私たちの命はキリストの御支配の内に守られているのです。で すから、何ものも私たちを滅ぼし去ることはできません。病気や老いは私たちを 滅ぼすことはできません。どんなに厳しい試練も私たちを滅ぼすことはできませ ん。何ものもキリストの支配を越えることはできないからです。私たちを命の源 である神の愛から引き離し、永遠の命を奪うことはできないからです。  第三に、キリストの支配は、彼を取り囲んでいる憎しみに満ちた人々をも含め、 世界そのものに及んでおりました。ステファノのしたことは、結局すべて無駄な ことのように見えます。彼の言葉は人々を変えることはできませんでした。むし ろ、最悪の状況を生み出したかのように見えます。しかし、キリストの支配は、 この最悪に見える状況の上にも及んでいるのです。キリストは、無駄に見える努 力と空しく費やされたかのように見える労苦から、多くの実りを生み出してくだ さるお方です。キリストは、最悪の状況から最善の結果を生み出してくださるお 方なのです。ステファノの殉教はさらに大きな迫害をもたらしました。人々は散 らされていくことになります。しかし、何がもたらされたでしょうか。人々が散 らされることになった結果、福音も散らされていくことになったのです。全世界 に向かって福音が散らされていくことになったのです。神の救いが、さらに広く 大きく及ぶようになりました。それはたとえステファノが一生かかって為そうと 思ってもできなかったことでした。まさに、この最悪の出来事が進行している時、 キリストは権威をもって立ち上がっておられたのです。   ○  私たちは恐らくステファノのような形で死ぬことはないでしょう。しかし、そ れでもなお、彼と同じように、キリストの支配を見上げて生き、そして死んでい くのがキリスト者であります。それが私たちのあるべき姿なのです。ステファノ のように幻で見ることはないかも知れません。しかし、やはり、私たちは信仰の 目をもって、権威の座におられるキリストを仰いで生きるのです。今日も、彼を 仰いで生きるのです。この場においても、私たちはキリストの御支配を仰ぎつつ 礼拝し、キリストの御支配を信じて、日々の戦いの場へと出ていくのであります。