「主が働き給う」                  使徒言行録 9章32節~43節  私たちは9章前半においてサウロの回心とその後について読んでまいりまし た。彼はイエス・キリストを信じて洗礼を受けると、すぐダマスコにおいてキ リストを宣べ伝え始めたのです。しかし、ユダヤ人たちは彼の言葉を受け入れ ないばかりか、彼を殺そうと企むようになりました。結局、サウロはダマスコ に留まることができなくなり、そこを逃れてエルサレムに向かうことになりま す。彼は、エルサレムにおいても、主にギリシャ語を話すユダヤ人たちに、キ リストを宣べ伝え始めました。しかし、そこでも彼は命を狙われるようになり ます。そして、最終的に、彼はエルサレムのキリスト者たちにつれられてカイ ザリアに下り、そこから故郷のタルソスへと逃れていったのでした。  ここで、サウロはしばらく物語りの表舞台から姿を消します。次に彼が登場 するのは、11章です。数年後のことです。「それから、バルナバはサウロを 捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。(11・ 25‐26)」彼はタルソスでも宣教の働きを続けていたとは思われますが、 「見つけ出して」と書かれているぐらいですから、本当に目立たない、隠れた 働きであったのだと思います。彼が、異邦人、すなわちユダヤ人以外の人々へ と福音を伝えるために、神によって大きく用いられるのは、バルナバによって 連れ戻されて後の話です。  人の目から見るならば、せっかく回心したサウロを、神様はどうして数年間 も埋もれさせてしまったのか、と訝しく思います。しかし、それはあくまでも 人の見方です。神様には神様の順序があるのです。サウロがタルソスにいる間、 神様は何もしておられなかったのではありません。むしろ、サウロが異邦人伝 道に用いられるため、さらには地の果てにまで福音が伝えられるために、神様 は準備を進めておられたのです。準備ができて初めてサウロが再び登場するの です。神様のタイミングに誤りはありません。  その準備とは、異邦人伝道に対して、使徒たち、特にペトロの目を開くとい うことでありました。1章8節でキリストがこう言っておられたことを思い出 してください。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果 てに至るまで、わたしの証人となる。」しかし、地の果てにまでキリストが宣 べ伝えられるという概念は、もともと使徒たちの内にはありませんでした。あ くまでも救いはユダヤ人のためのものでした。ユダヤ人の枠を超えて、福音が 異邦人世界にまで伝えられるなどということは、考えられなかったのでありま す。そのような使徒たち、特にペトロに対して、主は働きかけられるのです。  主がどのようにしてペトロの目を開かれたかは10章において詳しく学ぶこ とになるでしょう。今日、お読みしたところは、その出来事への導入として見 ることができます。ここにはペトロにまつわる二つの奇跡物語が記されており ます。私たちは、この中に見られる二つの事柄に目を留めて、この物語を通し て主が私たちに何を語りかけておられるかを聞いていきたいと思います。    第一に私たちが心に留めたいことは、これら二つの奇跡物語に類似の物語が、 福音書の中に見られるという事実です。ルカによる福音書と使徒言行録は同一 著者による二巻本ですので、あえて類似の物語を想起するように書かれている と言ってもよいでしょう。  32節から35節には、中風患者のアイネアという人が癒された、という物 語が記されています。ここに似ているのは、ルカ福音書の5章17節以下です。 どうぞお開きください。中風の患者がイエス様のもとに連れて来られました。 そして、その後、ファリサイ派の人々とのやりとりなどが記されていますが、 最終的にイエス様はこの患者に次のように言われます。「わたしはあなたに言 う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」  起き上がれないから寝ているのです。その人にイエス様は立ち上がることを 命じるのです。無茶な話です。ところが、この人は、イエス様の言葉を聞くと、 すぐさま皆の前で立ち上がったのでした。細かい描写は異なっていますが、ペ トロも同じようにこの中風の患者に命じます。「起きなさい。自分で床を整え なさい。」8年も床に着いていた人に立ち上がることを要求するのです。する と「アイネアはすぐ起きあがった」と言うのです。  もう一つの奇跡物語である36節以下に似ているのは、ルカによる福音書8 章40節からの物語であります。イエス様が、ヤイロという会堂長の娘を生き 返らせたという話です。ヤイロという人がイエス様のもとに来てひれ伏し、自 分の家に来て下さるようにと願います。12歳ぐらいになる一人娘が死にかけ ていたのです。イエス様は弟子たちと共にその家に向かいました。しかし、娘 はイエス様が着く前に死んでしまったのです。間に合いませんでした。しかし、 イエス様は、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、そして娘の父母を連れて家に入ります。 そして、娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられたのでした。こ の言葉はよほど印象的だったようで、マルコによる福音書などでは、イエス様 が話しておられたアラム語そのままで「タリタ、クム」と記されています。そ して、イエス様がこう言われると、その少女はすぐ起き上がったのでした。  使徒言行録9章36節以下の物語については、福音書における「タリタ、ク ム」の話を思い出すように書かれていることが明白です。ヤッファにいた、ド ルカスという名前の婦人が亡くなりました。彼女の名前が、わざわざアラム語 で記されています。その名は「タビタ」と言いました。ペトロはヤッファに近 いリダにいたのですが、二人の使いによってその婦人が亡くなったことを知ら され、使いの者と共にヤッファへと向かいます。彼が家に着くと、部屋から皆 を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって言いました。「タビタ、起き なさい。」お分かりでしょう。これはアラム語ですと、「タビタ、クム」とな るのです。  私たちはこれらのことを通して、「真の行為者はだれであるのか」というこ とを再考しなくてはなりません。ペトロは方々を巡り歩いて、リダに住んでい るキリスト者たちのところへも下って行ったのでした。それは明らかにペトロ の行為なのです。しかし、そうしたペトロによって為された事々というのは、 実は、ペトロの行為であって、ペトロの行為ではない。そのことを物語は明ら かにしているのです。かつてキリストが為されたのと同じことをしている。い や、キリストがここにおいてもペトロを通して働いておられるのだ、というこ となのです。ですから、アイネアの物語では明確に「イエス・キリストがいや してくださる」とペトロが宣言しているのです。「わたしがいやしてあげよう 」ではないのです。また、先にも見ましたように、ヤッファでの出来事につい て、ルカは言葉の類似をもって同じことを示すのです。単に駄洒落を言ってい るのではありません。ここで明らかにペトロを通して働いておられるのは、キ リストであることを明らかにしているのであります。  使徒言行録に記されている教会の歩みは新しい段階に入ろうとしています。 ルカはそれを10章以降に書き記そうとしているのです。しかし、そのことを 書き記すに当たって、重要なことを確認しているのです。「真の行為者は誰で あるか。それはキリストである」ということであります。大切なことは「私た ちがキリストのために何かをする」ということではないのです。「キリストが 私たちを通して何かをしようとしておられる」ということなのです。私たち一 人一人の信仰生活においても、これは大切な認識であります。奉仕すること一 つ取り上げてもそうなのです。私たちは、いつでもキリストが私たちを通して 何を為そうとしておられるのか、キリストの目的としていることは何であるの か、を尋ね求めなくてはならないのです。そうでないと、熱心な信仰者ほど、 道を誤ることになるのです。「神のため、キリストのため」という言葉はつい ていても、結局は、「私がする」のですから、話しはあくまでも「私にやる気 があるか、ないか」「私に能力があるか、ないか」ということに終始してしま うのです。そうしますと、どうしても神様が越えさせようとしておられる壁が 越えられなくなってしまうのです。  ペトロはそうではなかった。彼は自分がキリストの用いられる器であり、恵 みが届けられるための通路に過ぎないことを知っていたのです。キリストは彼 にユダヤ人と異邦人を隔てる壁を乗り越えさせようとしています。そして、そ れはペトロが真の行為者が誰であるかを知っていて始めて可能となったのです。 そのことをまず、この物語は私たちに示しているのです。  そして、第二に私たちが心に留めたいと思いますのは、ここであえて奇跡物 語が取り上げられ、どちらも宣教との関わりにおいて結ばれているという点で あります。アイネアの物語については、「リダとシャロンに住む人は皆アイネ アを見て、主に立ち帰った(35節)」と書かれていますし、タビタの物語に ついては、「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた(42 節)」と書かれているのです。つまり、病気が癒されたり、死人が生き返った りという出来事そのものによってアイネアやタビタが救われたというのではな くて、むしろ人々が主に立ち帰ったということの方に強調点が見られるのであ ります。  病気の癒しや死人の蘇生という物語をどのように読むかは非常に重要です。 ある人は、「仮死状態だったものが息を吹き返したのだ」と説明します。だか らどうだと言うのでしょう。それで納得できる人は納得していたらよいでしょ う。また、ある人は、この奇跡が起こったこと自体に重きを置いて、「これは 事実なのだ」と強調します。あたかも神が奇跡的に人を癒したり、生き返らせ たりすること自体が救いであるかのようにです。もし、死人が生き返ることが 救いであるならば、なぜ現代においても神は殊更にそのことを行わないのでし ょうか。  癒された人もやがて再び病気にはなります。蘇生した婦人も、やがて死んで いきます。大切な点は、これらが神の国のしるしであるということであります。 癒しの奇跡は、来るべき世における完全な癒しの世界を指し示しているのです。 死人の生き返りは、来るべき世における完全な復活の世界を指し示しているの です。それは神様の恵みの支配が完成された世界なのです。だから、この世に おいても来るべき世においても、最も大切なことは、主と人との関係はどうで あるか、ということであります。人々は、アイネアの癒しにおいて、あるいは タビタの蘇生において、神の恵みの支配に触れたのでした。ペトロによって現 された奇跡は、キリストの名による神の国への招きの行為でもありました。だ から人は「主に立ち帰った」のです。  イエス様は、十字架にかかられ復活される以前にも、神の国のしるしを現し、 神の恵みの支配を示し、神の国へと人々を招かれました。十字架にかかられて 贖いを全うし、復活されたキリストは、やはりペトロを通して同じことをなさ います。キリストが現代の教会を通して為そうとしておられるのも、同じこと であります。そして、神の国への招きという行為はあくまでも主御自身の行為 であって、「私がキリストのために」というあり方では為し得ないことなので あります。もちろん、キリストが私たちを通して為そうとしておられることは、 表に現れる形としては、必ずしもこのペトロの場合のように病人を癒すことで はないかも知れません。むしろそうでない場合が多いでしょう。しかし、どの ような形であれ、キリストが私たちを通して働き給う時、人は神の恵みの支配 に触れるのであります。教会を通して、人は神の恵みの御支配を見るのです。 そして、人と神との関係が変わるのです。むろん、逆のことも言えます。「私 がキリストのために働くのだ」と言っている時、もしかしたら人に喜ばれるよ うなことは為し得るかも知れません。教会は世の人々に受け入れられ、歓迎さ れるものとなることはできるかもしれない。しかし、その結果として、結局人 々は主に立ち帰ることはなく、神と人との関係は変わらず断絶したままである ということがあり得るのです。  使徒言行録において、教会はこの後、様々な経過を経て異邦人社会の中に入 っていくようになります。それは、異邦人を差別してはならない、というキリ ストの名における正義感や使命感から出たものではありませんでした。あるい は、異邦人に対する憐れみの心から出たのでさえありませんでした。ペトロや 他の使徒たちが置かれていた状況を考えるならば、そのような正義感や使命感 から出るはずはなかったのです。そうではなくて、行為の主体であるキリスト が異邦人へと向かっておられ、彼らをも神の国へと招かれたという事実による のです。キリスト御自身が、異邦人もまた神の国に招かれているということを 教会に知らせ、彼らを異邦人社会へと向かわせられたのです。そして、教会は 主の御心に自らを明け渡しただけなのです。  私たちもまた、主の御計画の中に置かれています。主は私たちを通して働き 給うのです。大切なことは、主の御心を尋ね求めることであり、欠けだらけの 己を捧げていくことであります。祈りと明け渡しです。そうする時、主が私た ちを持ち運ばれ、壁を乗り越えさせ、主の御業のために用い給うのであります。