「パウロの証し」                        使徒22・1‐16  本日お読みしました箇所には、パウロが民衆に対して行った弁明が記されてお り ます。これはまた彼がいかにしてキリスト者となったか、その経験についての証 言 でもあります。私たちは今日、彼の語るところに耳を傾けたいと思うのですが、 彼 の言葉を十分に理解するためには、まずこれがどのような状況において語られた か を踏まえておく必要があるでしょう。そこで私たちはまず前回読みましたところ に 遡って、この場面がどのようなものであったかを思い起こしたいと思います。 自分を義とする人々  前回お読みしたところには、パウロが民衆によって暴行を加えられ、殺されそ う になった出来事が記されておりました。アジアから来たユダヤ人たちの煽動によっ てエルサレムの人々が騒ぎ出したのです。その騒動のきっかけは、パウロの行動 に ついての小さな誤解でありました。21章29節に記されている通りです。騒ぎ を 聞きつけて、ローマの守備隊が駆けつけました。千人隊長はパウロを捕らえて事 の 真相を突き止めようといたします。しかし、群衆が騒々しくて思うようにいきま せ ん。とうとうパウロを兵営に連行することになりました。兵士たちは群衆の暴行 を 避けるため、パウロを担いで連れていきます。その後についていく民衆は叫びま す。 「その男を殺してしまえ。」ここでルカはこの出来事を、三十年近く前にやはり 同 じエルサレムで起こった出来事と重ね合わせて描いているようです。すなわち、 あ の時も、民衆はナザレのイエスというその人について叫んだのです。「その男を 殺 せ!(ルカ23・18)」  あの主イエスの時も、このパウロが関わっている場面においても、殺意に燃え て 叫んでいたのは、いわゆる「悪人」や「ならず者」などではありません。むしろ、 この世的な評価によるならば、敬虔な正しい人々だったのです。先祖伝来の習慣 を 忠実に守り、律法に従って生活していた人たちでありました。神の選民であるこ と を何よりも誇りとしていた人々です。今日の箇所でパウロが言っているように、 熱 心に神に仕える人々だったのであります。それゆえ、「殺してしまえ」と叫んで い る人々を、ルカはあえて「群衆」と呼ばずに「民衆」と呼んでおります。「民衆」 (ギリシャ語ではラオス)という言葉は、神の民としてのイスラエルを表現する 言 葉でもあるからです。イエス様が裁かれた時にも、ルカは集まっていた人々を 「民 衆」と表現ておりました。これも同じ意図によるものと思われます。  しかし、ルカは、そのような自らを神の選民であり、律法に従って生きる正し い 者であると見なす人々を登場させながら、そのような人間の「正しさ」がいかに 倒 錯したものであるかを描いているのです。一見すると正義に基づいた「聖なる怒 り 」に見えるものが、実際にはいかに恐るべき人間の罪の現れであるかということ を 描いているのであります。罪なき主イエスが人間の正しさとその正しさに基づく 裁 きによって十字架につけられたという事実によって、その人間の正義の内に潜む 恐 るべき罪の実体が露わにされます。そして、同じ罪が、ここにも現れております。 もはや「何が本当に正しいことであるのか」ということによってではなく、ただ 怒 りによって狂ったように「殺してしまえ」と叫び続ける人々の姿の中にも同じ罪 の 姿が現れているのであります。  パウロの証言は、そのような場面において語られました。そうすると、パウロ が まず自らの過去について語りだしたことの意味が見えてまいります。パウロはま ず 自分自身を彼らと同じ位置に置いているのです。民衆は不当に彼を非難する者で あ りパウロは被害者である、という構図ではなくて、パウロはまず自分自身も民衆 も 本質的には同じなのだというところから始めるのです。  彼は彼らと同じユダヤ人として、ヘブライ語(厳密にはアラム語)で話し始め ま す。「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」 そう彼らに呼びかけ、次のように続けるのです。「わたしは、キリキア州のタル ソ スで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の 律 法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えてい ま した。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさ え したのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言 し てくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、 その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて 行 ったのです。(3‐5節)」  今、民衆の殺意はパウロ自身に向けられています。しかし、彼らの姿は他人事 で はありません。パウロもまた同じであったのです。彼もまた自らを正しい人間で あ ると思っていた。律法について厳しい教育を受け、自分の意識としては熱心に神 に 仕えていると思っていた。それゆえに、彼はキリスト者を迫害し、「殺すことさ え した」と言うのです。厳密に言えば、原語においては先の民衆の叫びとは若干異 な りますが、内容的には繋がります。「殺してしまえ」と叫ぶ民衆に対して、その 言 葉を他人事にせず、自ら「殺すことさえした」と語るパウロ。なんら変わるとこ ろ はなかったのです。 主によって打ち倒された人  しかし、パウロはさらに進んで、彼らとパウロを異なる者としている一つの事 実 を語り始めます。今なお殺意に燃えて「殺してしまえ」と叫んでいる民衆と、彼 ら に対して語りかけているキリスト者パウロがそこにいる。それはいったい何故で あ り何を意味するのか。そのことをパウロは語り始めるのであります。  6節以下を御覧ください。「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼 ご ろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、 『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。 『主 よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナ ザ レのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たので す が、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいで し ょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければなら な いことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝き の ために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダ マ スコに入りました。(6‐11節)」  ダマスコ途上におけるパウロの回心の経験が記されているのは、これで二度目 で す。この後26章においてもう一度パウロが証言していますので、ルカは合計三 回 同じことを書き記しているわけです。しかし、この三つの記載を比べてみますと、 すぐに気付されることがあります。話が合わないのです。9章の回心物語におい て は、「同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、もの も 言えず立っていた。(9・7)」と書かれていました。22章には、「一緒にい た 人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした (9節)」と書かれています。さらに26章では、「私たちが皆地に倒れたとき (26・14)」と書かれていて、同行した者たちも倒れたことになっています。 これはどういうことでしょうか。  これらの食い違いは、ルカがそれぞれ違う資料を用いて書いたからかもしれま せ ん。しかし、もし彼が神秘的な出来事そのものに重きを置いていたならば、恐ら く 何らかの仕方で、辻褄を合わせるように書き直したことでしょう。ルカはあえて そ うしなかったのです。ルカにとっては、その声がパウロだけに聞こえたのか、他 の 者にも聞こえたのかなどということは、どうでもよいことだったのです。大切な こ とは、どのような仕方にせよ、キリストがパウロの人生に介入された、という事 実 でありました。キリストがパウロの人生に入って来られたということなのです。 で すから、そこで私たちが見なくてはならないのは、神秘的な現象そのものではあ り ません。結果的に、キリストの介入によって、彼がどうなったのか、ということ な のです。  パウロを見る限り、キリストが関わって来られるということは必ずしもすぐに 単 純に喜びや幸福感が与えられることではないようであります。彼はまず地に打ち 倒 されなくてはなりませんでした。見えていた彼の目は見えなくされる必要があっ た のです。自らを正しい者とみなし、人を裁いて死に至らしていた人間が、そこで 打 ち砕かれて、自らまったくの罪人として、神の前に出なくてはならなかったので す。 自分は正しいことが見えていると言っていた人間が、実は何も見えてはいなかっ た のだ、と気付かされる。正しい方向に自分の足で立って歩いて行けると考えてい た 人間が、実は自らは一歩も前に進めない者なのだと気付かされる。それがパウロ に 起こった出来事でありました。キリストが人生に介入して来られるとは、そのよ う なことなのです。  しかし、彼は打ち倒されて、見えなくされて、それで終わりではありませんで し た。彼はそこでキリストの御声を聞いたのです。それは「サウル、サウル、なぜ わ たしを迫害するのか」という声でありました。彼は主によって低くされ、他なら ぬ 彼自身の名前を呼ぶ、主の御声を聞いたのであります。さて、パウロの名が呼ば れ たとということは、何を意味するのでしょうか。  名は存在そのものに関わります。それまで、パウロは「ナザレのイエス」とい う 名を口にさえしなかっただろうと思います。まさに抹殺すべき忌むべき名である と 思っていたからです。パウロはキリスト者を死に至らせました。それはキリスト 者 を殺すことが、イエスの名を抹殺することでもあったからであります。殺すとい う ことは、そもそも、他者の存在を否定することであります。自分の存在は良しと し ておいて、他の者の存在はこれを良しとしない。それが、自らを正しい者として、 他者を殺すということです。しかし、そういう思いは多かれ少なかれ誰の内にも あ るわけで、何も実際に手を下して人を殺しはしなくても、本質的には殺すのと変 わ らないことをしているものです。パウロはイエスという方の存在を良しとはしな か った。イエスの名を決して受け入れなかったのです。しかし、そのイエス様が、 パ ウロの名を呼ばれたのです。パウロの存在を認めて名を呼んだのです。二度名を 呼 んでいるイエス様の呼びかけの中に、それが良く現れております。主は裁いて滅 ぼ すために彼を打ち倒したのではないのです。「なぜ迫害するのか」という言葉も、 彼を責め立てるために語っているのではないのです。彼を本当の意味で生かすた め なのです。赦された者として、存在を肯定された者として、真に恵みの内に生か す ためなのです。  それゆえ、パウロは問いかけます。「主よ、あなたはどなたですか。」「主よ、 どうしたらよいでしょうか。」彼は、自分を打ち倒した方がいったい誰であるの か、 分かっていたのかも知れません。ここで明らかなことは、その方がパウロの主と な ったということです。そして、キリストを主として生きるということがどういう こ とであるのか、さらに一人の人物を通して彼は示されるのであります。 キリスト者パウロ  パウロのもとに遣わされたのは、アナニアというキリスト者でありました。キ リ ストによって「サウル」と呼びかけられた彼はまた、アナニアにも「兄弟サウル」 と呼びかけられます。パウロはキリスト者を迫害し、教会を迫害してきたのです。 しかし、ここでパウロは「兄弟サウル」として受け入れられるのです。神の前に 打 ち砕かれ、罪人として立たされた者が受け入れられる交わりがそこにあるのです。 それが教会です。  そこでパウロは自らの経験したことがいったい何であったのかを聞くことにな り ます。そして、どうしたらよいのかを聞くのです。アナニアは彼に言います。 「わ たしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの 正 しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きした こ とについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をた め らっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗 い 清めなさい。(14‐16節)」彼は自分の個人的な神秘体験に基づいてキリス ト 者として生きるのではありません。そうではなくて、教会に受け入れられ、教会 の 言葉に基づいてキリスト者として生き始めるのです。  それは、パウロにとって、実に自然なことであり、同時に理にかなったことで し た。なぜなら、パウロが聞いた言葉は、「なぜわたしを迫害するのか」という声 だ ったからです。パウロが実際に迫害していたのはキリスト者であり教会でありま し た。しかし、主は、パウロが迫害していた教会と自らとを同一視されたのです。 で あるならば、パウロがイエスを主として生きることは、教会と共に生きることに 他 ならないのです。  パウロは自分自身に対する復活のキリストの顕現によって、キリスト者として の 人生をスタートしたのではありませんでした。そうではなくて、教会に受け入れ ら れ、教会に与えられている主の言葉のもとに洗礼を受けて、罪を洗い清められて、 キリストを主とする人生を歩み出したのであります。このことを経て彼はさらに キ リストによって使命を与えられ、遠く異邦人へと遣わされ、復活のキリストの証 人 として生きる者とされたのであります。  そのパウロのこの証言を私たちは読んで参りました。この証しを通して、私た ち もまた、自らがキリスト者であること、またキリスト者となるということはいか な ることであるかを、よく考えたいと思うのであります。