「罪の奴隷か神の奴隷か」                          ローマ6・15‐23  私どもの教会では、兵庫県の篠山において日曜日午後7時より礼拝を行って おります。ある日、私は夕暮れの高速道路を篠山に向かって車を走らせており ました。私の住む豊中から篠山に行くには、中国自動車道から舞鶴自動車道に 入らなくてはなりません。しかし、その日、私は車を走らせながら考え事をし ておりまして、うっかりジャンクションを見落としてしまったのです。まった く気づかずに岡山方面へと向かっていた私の車は、いつしか見慣れぬ風景の中 を西へ西へとひたすら走っていたのでした。  中国自動車道をいくら西に走ったとしても篠山には着きません。道が違うか らです。走っている方向が違えば行きつく先も違うのです。さて、前回お読み しました個所には「罪の奴隷」という言葉が出てきました。(6・6)今日お 読みしましたところには「神の奴隷」という言葉が出てきます。(6・22) 「罪の奴隷」として生きる道と「神の奴隷」として生きる道は決定的に方向が 違います。従って、行きつく先も異なります。そして、道路を二つの方向に同 時に走ることが出来ないように、「罪の奴隷」として生きることと「神の奴隷 」として生きることは同時に成り立ち得ません。本日の礼拝において、私たち は与えられているこの聖書の御言葉に注意深く耳を傾け、このようにパウロが 対比して語っている方向の異なる二つの人生について、よく考えたいと思うの であります。 罪の奴隷から神の奴隷へ  それではまず15節から18節までをご覧ください。「では、どうなのか。 わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいと いうことでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、 だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなた がたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義 に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつ ては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から 従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。(15‐1 8節)」  14節においてパウロは「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる のです」と書きました。そして、そこから生じるであろう問いを想定してパウ ロは語ります。「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、 罪を犯してよいということでしょうか。」言葉は違いますが、6章1節と同じ 問いの繰り返しです。人間の罪に対して罰を要求する律法からの自由を語り、 神の恵みを語るならば、それは人間を放縦と堕落へと導くことになるのではな いか。このような問いを突きつけてパウロを非難する人々がおりました。また、 「神の恵みのもとにあるのだから、何をやったとしてもどうせ赦されるのだ」 と言って自分を正当化するためにパウロの言葉を用いた人もいたことでしょう。 神の恵みを語ることは人間を罪に導くことになるという思想がいかに根強いも のであるか。そのことをパウロは痛感していたのだと思います。それゆえに、 彼はこの問いをあえて繰り返します。そして、断固として否定するのです。 「決してそうではない!」と。  そう言ってパウロは二つの道を提示します。行き着くところが完全に異なる 二つの道であります。一つは罪に仕える奴隷として生きる道です。その行き着 くところは「死」であると言います。もう一つは神に仕える奴隷として生きる 道です。その行き着くところは「義」であります。終局としての「死」と「義 」が対比されています。「死」とは命から離れた状態です。それはすなわち、 命そのものである神との断絶を意味します。単に肉体が朽ちることではありま せん。「死」は肉体が朽ちなくてもそこにあります。そして神の裁きによって 完全に神から捨てられ滅びに至ります。これが「死」というものです。罪に仕 える道のゴールは滅びとしての「死」であります。であるならば、その「死」 の対極にある「義」とは、完全なる救いを意味していることになるでしょう。 永遠の命にあずかり、神と共に生きる完全なる救い。これが神に仕える奴隷と して生きる道のゴールである「義」です。そして、これら二つの道は決して一 つとならない、まったく異なる方向へと向かう二つの道なのです。  さて、ここで6章前半において語られていたことを思い起こしてください。 そこでパウロは洗礼について語っております。彼は信仰者として生きるという ことがいかなることかを明らかにしているのです。それは「キリストの死にあ ずかることだ」とパウロは言います。私たちの罪のために死んでくださったの はキリストなのですが、その死にあずかって私たちが死んだ者とされるのです。 そのように一度死んだ者とされるのは何のためでしょうか。それは新しい命に 生きるためなのだ、と語られておりました。そこで大切なのは自己認識です。 神が見ておられるように私たちも自分を見なくてはなりません。ですから11 節でパウロはこのよう書いているのです。「このように、あなたがたも自分は 罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きてい るのだと考えなさい。」  17節以下に書かれていることも、この認識に基づいております。「しかし、 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、…罪から解放さ れ、義に仕えるようになりました。」パウロは同じ言葉をしばしば異なる意味 で用いますので文章がややこしくなりますが、この部分の内容は至って単純で す。「義に仕える」ということは「罪の奴隷」と対比されているのですから、 当然、「神に仕える」という意味です。つまり、主人が変わったということで す。  一度死んだ者として新しい命に生きるとはいかなることでしょうか。それは 罪の奴隷であった者が神の奴隷として生きることに他ならないのです。罪に対 して死んだのですから、もはや罪は主人ではありません。罪を主人と見なして はならないのです。信仰者であるとは、一度死んで主人を変えた、いや変えさ せていただいた者であることを意味します。もはや罪を主人として死に向かっ て歩いているのではなくて、神を主人として義に向かって、最終的な完全なる 救いに向かって歩き始めた者であることを思い起こさなくてはなりません。こ れが18節までに語られている内容であります。 永遠の命に向かって生きる  それではその先を読み進んでいきましょう。19節からお読みします。「あ なたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自 分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを 義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷で あったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りが ありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き 着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の 奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命で す。(19‐22節)」  奴隷と主人との関係を例にとって説明することが、必ずしも事柄を十分に言 い表していないことをパウロは承知しているようです。このような人間的な例 を用いることは「あなたがたの肉の弱さを考慮して」であると言い添えていま す。そのように躊躇しながらではありますが、あえてなお奴隷を例に取りなが ら話を続けます。  パウロはここでさらに読者に二つのことを思い起こさせます。過去の自分に 関する二つのことを思い起こさせるのです。一つは、いかに自分の五体を汚れ と不法のために用いていたかということです。罪という主人が要求することに 対して、私たちはいかに熱心であったことでしょう。時には嬉々として、自分 の五体を罪の要求するままに用いていたのであります。そのことを思い起こさ せながら、私たちが罪に仕えていた熱心さと同じように、「今これを義の奴隷 として献げて、聖なる生活を送りなさい」と言っているのであります。ちなみ にこの「聖なる生活を送りなさい」という言葉は、完成された状態を表す言葉 ではなくて、完成へと向かうプロセスを表す言葉であります。ですからある訳 では「聖化(聖と化すること)」と訳出されております。自分の五体を用いて 汚れから汚れ、不法から不法へと生きていたように、今は五体を神に献げ、神 のために用いて神に仕えなさい。そして救いの完成へと向かって、完全に神の ものとして生きることを目指して、聖化の道を進みなさいとパウロは言ってい るのです。  そして、彼はもう一つのことをも思い起こさせます。それは恥ずべき過去の 罪の実りであります。「あなたがたは罪の奴隷であったときは、義に対しては 自由の身でした」と書かれています。何にも束縛されないで、自分の欲するま まに生きられることが自由であると人は考えます。確かにその人は義に対して 自由です。すなわち神に対して人は自由に生きることができます。しかし、神 に対して自由な者として自分の欲するままに生きようとする人は、やがて自分 の欲するままに生きていない自分を見出すことになります。そうです、人間は 完全に何にも束縛されないで生きることなど出来ないのです。思いのままに生 きている人は、やがて罪の奴隷である自分を見出します。そして、罪は実りを もたらすのです。それがいかなる実りであるか、罪の奴隷である時には往々に して気づきません。罪が主人でなくなった時になって初めて気づくのです。な んと恥ずべき実りであったことか。ああ、何という恥ずべき実りの数々!  恥ずべきことは忘れたいと思うのが人情でしょう。しかし、パウロは思い起 こさせるのです。「では、そのころ、どんな実りがありましたか」と問うので す。そして言うのです、「あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです」と。 なぜでしょう。忘れてはならないからです。その恥を知ることによって、確か に「それらの行き着くところは、死に他ならない」ことを考えることができる からです。そして、22節に記されているように、神の奴隷として生かされて いることの恵みを知ることができるのです。恥を知る人は聖なる生活の実りを 求めます。恥を知らない人は聖化を求めることもありません。恥を知らない人 は、「恵みの下にいるのだから、罪を犯してよい」などと言い始めるのです。 過去の罪の恥ずべき実りを忘れてはならないのです。  先日、妻と共に東京に行ってきました。東京は妻にとっても私にとっても故 郷です。それは過去のすべての歩みを思い起こさせてくれる町でもあります。 それこそ恥を思い起こさせてくれる町であります。大阪への帰路、羽田へと向 かう電車の中で、いみじくも妻が私に言いました。「過去を忘れちゃいけない んだよね。」ある歌の歌詞に「忘れたい思い出に永遠のグッバイ」というのが ありまして、そんな歌詞のことに触れながら、そう言ったのでした。「忘れた い事ってあるけど、忘れちゃいけないんだよね。」――本当にそうだと、私は この聖書個所を読みながら改めて思ったことでした。  一つの道は、「私は自由だ」と言いながら、実は罪の奴隷として生きる道で す。その結ぶ実は恥に満ちたものです。恥ずべき実りを沢山実らせながら、最 終的に行き着くところは「死にほかならない」とパウロは言います。しかし、 本当は、そんな恥ずかしい道を最後まで歩き通す必要はないのです。最終的な 永遠の死に至るまで、罪に仕えている必要はないのです。なぜなら、その最終 的な死を、既にキリストが死んでくださったからです。十字架にかかって、私 たちの代わりに死んで下さったからです。本当は私たちが死に至らなくてはな らなかったはずなのに、あのお方が神の裁きを受けて、死んでくださったので す。それゆえ人は、ただその死にあずかったらよいのです。その死にあずかっ て、一度死んだものとして、既に裁きを受けた者として、新しく生き始めたら よいのです。そうして方向を変え、違うゴールに向かって歩み出したらよいの です。「行き着くところは、永遠の命です」と語られているその方向に向かっ て歩み出したらよいのです。そして、事実、ローマの信徒たちはそのように歩 み出したのでした。彼らがキリスト者であるということは、そういうことなの です。そのような認識に立つならば、「律法の下ではなく恵みの下にいるのだ から、罪を犯してよい」などという言葉が出て来ようはずがない。パウロはそ のことを明らかにしているのであります。  さて、最初の話に戻りますが、間違った方向に車を走らせていた私は、ふと 我に返っていつもと風景が違うことに気がつきました。そこで、ともかく次の 出口で下りて、方向を変えて走り始めたのです。気づいた時には既にかなり行 き過ぎておりました。しかし、ともかく無事篠山には着いたのです。何も不思 議なことではないでしょう。方向を変えなければ本来の目的地には絶対に着か ないし、方向が正しければ必ず目的地には着くのです。問題は「どこにいるか 」ということではありません。「どちらに向かっているか」なのです。これは 人生においても同じです。  「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト ・イエスによる永遠の命なのです。(23節)」罪に生涯仕え続けても、その 報いとして得られるのは「死」であると聖書は言います。永遠の命の源なる神 を失い、永遠の滅びに至ることだけがその報酬であると聖書は教えるのであり ます。その冷厳なる事実に対して、自らを誤魔化すことなく向き合うとき、神 が主キリスト・イエスを通して備えてくださった賜物の大いなることを知るの であります。永遠の命なる賜物は、私たちの業に対する報酬ではありません。 私たちは永遠の命を当然のごとく要求することも、またその対価を差し出すこ ともできないからです。私たちはただ、「行き着くところは、永遠の命です」 と言われているその道を歩んでいくのです。本当に大切なことは、「今どこに いるか」ではありません。「どちらに向かっているか」なのです。