「貧しい者への福音」                            イザヤ61・1‐4  ルカによる福音書4章を見ますと、そこには主イエスが故郷のナザレで宣教さ れた時の様子が記されております。主は安息日に会堂に入り、そこで手渡された イザヤの巻物を朗読されました。そこで朗読されました聖書箇所が、今日お読み しましたイザヤ書61章であります。そして、主イエスはこの1節と2節の最初 までをお読みになると、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、 実現した」と話し始められました。ということで、今日の聖書箇所は、主イエス の宣教が何であるかを理解する上で、非常に重要な箇所であることが分かります。 さて、このイザヤ書に記されているこの言葉が、主の宣教において実現したとの 宣言は、私たちにとって何を意味するのでしょうか。 ●貧しい人に  そこで、まず私たちは、このイザヤ書の預言そのものが本来何を意味したかを、 ご一緒に考えてみたいと思います。  今日読みました箇所において、この預言の背景となっている具体的な状況を最 も良く示しているのは4節の言葉でしょう。そこには次のように記されておりま す。「彼らはとこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興す。廃墟の町々、代 々の荒廃の跡を新しくする」(4節)。預言者は廃墟と荒廃の跡を思い描いてい ます。3節に「シオンのゆえに嘆いている人々」という言葉が出てきますので、 それはまず第一にシオン、すなわちエルサレムであろうと思われます。そして、 さらに「廃墟の町々」とありますから、他のユダの町々も視野に入っています。 明らかに、紀元前6世紀にバビロニアによって破壊された町々のことです。  そこには、破壊されたシオンのゆえに嘆いている人々がいます。神の都エルサ レムが廃墟のままになっていることを嘆いている人々がそこにいるのです。それ はバビロニアの軍隊のもたらした廃墟であります。しかし、それはまた同時に、 神の言葉を頑なに拒み、神に逆らったイスラエルの罪がもたらした廃墟でもあり ました。ですから、その嘆きは単に、悲しい運命を嘆いているのではありません。 それはまた、自らの罪とその結果に対する嘆きでもあるのです。  そのような彼らは、1節において「貧しい人」と呼ばれております。「貧しい 人」という言葉が聖書、特に旧約聖書に出てくる時、それは単に経済的な困窮を 意味するのではありません。その言葉が意味するのは、何よりも、この世界の諸 々の力によって抑圧され、押しつぶされ、苦しんでいる人々であります。どこに も拠り所を持たない、持ち得ない人々です。そして、それゆえに、神に向かって 叫ぶ人です。自らの無力さ、自らの貧しさを自分自身も骨身にしみて知るゆえに、 ただ神にのみ望みを置いて叫ぶ人です。  それゆえ、しばしば「貧しい人」という言葉は、苦難の中において、なお信仰 に生きる信仰者を表します。そのような貧しい人が、例えば詩編の中の多くの箇 所において言及されております。繰り返しますが、これは単に経済状態を言って いるのではありません。なぜなら、経済的な話だけであるならば、貧しい者が、 より貧しい者を抑圧する側に立つこともあり得るからです。また、抑圧され、苦 しんでいる者が必ずしも、人間の弱さと貧しさを知り、神に望みを置いて、神の 救いと裁きを叫び求めるとは限りません。むしろ、神に逆らう道を行くこともあ り得ます。ここで語られている「貧しい人」は、そのような人々ではないことは 言うまでもありません。  ですから、すぐに気が付きますように、ここで「貧しい人」という言葉は、 「打ち砕かれた心」という言葉と共に現れます。この二つは無関係ではないので す。この「打ち砕かれる」という言葉は、例えば詩編51編に出てきます。そこ にはこう歌われているのです。「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献 げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるい けにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません 」(詩編51・18‐19)。その詩編の箇所において、「打ち砕かれた心」は また「悔いる心」であると語られています。「打ち砕かれ悔いる心」が何である かは、この詩編全体を読みますとよく分かります。自らの罪を認め、「咎をこと ごとく洗い、罪から清めてください」(同4節)と祈る心です。つまり、ただ自 分を被害者の側に置き、自分を正しい者とし、他者のみを悪人とし、自分の運命 を嘆き悲しんでいるだけの人の心は、ここに言われている「打ち砕かれた心」で はないのです。 ●良い知らせを  さて、そのような貧しい者、打ち砕かれた心の者に福音が語られる、というの がこの箇所の内容であります。貧しい者に預言者が遣わされるのです。預言者は 自らの使命についてこのように語ります。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の 霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせる ために」(1節)。油を注ぐというのは神による任命を意味します。旧約聖書に おいて、例えばダビデがサムエルによって油を注がれて王となった物語を、私た ちは読むことができます。(サムエル上16・13)もっとも、この油注ぎが、 実際に見える形で行われたと考える必要はありません。主によって任命されたこ とを示す象徴的な表現として見てよいでしょう。  いずれにせよ、貧しい者、貧しさの中から神を呼び求める者は、福音を聞くの です。主なる神の霊が預言者をとらえているということは、その福音が人間から 出たものではなく、神からの福音であることを意味します。神は貧しい者を心に かけられます。神が良い知らせを与えてくださるのです。そして、福音が語られ、 聞かれる時、神による救いが起こります。そこで打ち砕かれた心は包み込まれ、 癒されるのです。そして、そこでは完全なる自由と解放が告知されるのです。  ここで語られている「捕らわれ人」というのは、必ずしも文字通り、バビロン において捕囚となっていた人々を指すと考える必要はありません。多くの学者は、 この預言が語られたのは、むしろ人々がバビロンから解放され、エルサレムに帰 還した時代であると考えます。そうしますと、もはやバビロンの捕囚民という意 味での捕らわれ人ではありません。しかし、一つの捕らわれから解放されたとし ても、別な意味での捕らわれ人であるということはあり得ます。ここで語られて いる人が、物理的に捕らわれているのか、精神的に捕らわれているのかは定かで はありません。しかし、いずれにしても自由ではないのです。その自由でない人 に、神からの自由と解放が告知されるのです。  既に明らかなように、その自由は、人の手によってではなく、神の介入によっ て与えられるものとして語られております。ですから、そこで告知されるのは 「主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日」(2節)である と記されているのです。自由と解放について語られているのですから、「恵みを お与えになる年」という言葉は理解できます。しかし、なぜ「報復される日」が 並べられているのでしょうか。  このことを奇異に思う人もいるかも知れません。しかし、考えて見てください。 いつでも、神が生ける神として介入されるとは、そのようなことではないでしょ うか。生ける神が御自身をまことの王として現し、その力を示され、主権を確立 されるということは、救いであると同時に裁きなのです。すなわち、神に逆らい、 他者を抑圧し踏みにじってきた者にとって、その日は裁きの日となり、報復の日 となるのです。人は蒔いたものを刈り取るのです。他者の苦しみの上に自分の幸 福と打ち立て、他者の悲しみを代償として自分の欲望を満足させようとしてきた 人々にとっては、裁きの日となるのです。  しかし、それは貧しい者にとっては救いの日であります。貧しい者として主を 呼び求め、主を待ち望む者にとってはまさに神の介入の時は解放の時に他なりま せん。神は来られて、嘆いている人々を慰め給います。神の慰めは、この世に満 ちている無力な慰めの言葉とは異なります。それは生きて働き、回復する力です。 神の慰めは力なのです。ですから、神の慰めは、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆き に代えて喜びの香油を注ぎ、暗い希望のない心に代えて賛美の衣をまとわせるも のとなるのです。  そして、神の慰めが現れる時、悲しみ嘆いていた貧しい者たち、その貧しさの 中から神を呼び求めていた無力な人々が、いったいどのような者となるべく定め られていたかが明らかにされるのです。彼らが、どれほど無力で貧しくても、そ れは「主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木」なのです。彼らはそのよ うな者として呼ばれるようになる、と語られているのです。 ●この聖書の言葉は、今日、実現した  これがもともとイザヤ書に語られていた預言の内容でありました。そして、や がてエルサレムの廃墟は建て直されました。古い荒廃の跡は興されました。その 他の廃墟の町々、代々の荒廃の跡は新しくされました。イスラエルの民を取り巻 く状況は変わりました。しかし、そのことにおいてこの預言が成就したのではあ りませんでした。この預言は、なお未来を待ち望む言葉としてそこにありました。 神の決定的な御業が開始するその時を待ち望む言葉としてそこにありました。そ して、その時は来たのです。ナザレのイエスの上に、聖霊が降り、天から声が響 きました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3・22)。 そして、やがて『霊』の力に満ちてガリラヤに帰られた主イエスは、お育ちにな ったナザレの会堂に入られ、この預言の冒頭部分を朗読されました。そしてこう 宣言されたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実 現した」(ルカ4・21)。  これは私たちに何を示しているのでしょう。主イエスの到来と共に、貧しい人 が福音を耳にする時が来たのだ、ということを私たちに告げているのです。主イ エスが福音を告げ知らせる、油注がれた方として来られたのです。あの預言を最 初に聞いたイスラエルの人々だけでなく、この世の諸々の力に押しつぶされてい るすべての貧しい人が福音を聞く時が来たのです。いや、この世の諸々の権力も とにある人々だけではありません。すべての人を捕えて離さない罪の力、死の力 に支配されている人々に対して、福音が語られる時が来たのです。その苦しみと 悲しみの中から、ただ神にのみ望みを置いて叫び求める人々に、福音が語られる 時が来たのです。なぜなら、決定的な神の御業が、一人の御方と共に始まったか らです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と 書かれているとおりです。  そして、主はなお教会を通して、この喜びの知らせを告知しておられます。主 はこの時代に対しても、教会を通して宣言されるのです。「この聖書の言葉は、 今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。それゆえ、私たちは、もはや 希望のないものとして、うなだれて、嘆いて生きる必要はありません。もはや捕 らわれた者として生きる必要はありません。キリストが共におられ、福音が語ら れ、聞かれるところにおいて、打ち砕かれた心は包まれ、癒されるのです。キリ ストが共におられ、福音が語られ、聞かれるところにおいて、捕らわれた人を解 放する神の約束は実現するのです。それゆえ、人はもはや灰をかぶって嘆いてい る必要はありません。その頭には灰に代えて冠がかぶせられるからです。嘆きに 代えて喜びの香油が注がれるのです。希望のない暗い心と共に生きる必要はあり ません。暗い心に代えて、賛美を衣としてまとわせていただけるのです。そして、 この宣教の業は、終わりの完成の時に向かって続けられているのであります。私 たちはその途上にあるのです。  さて、しかしもう一方で、私たちはルカの伝える物語の続きを見落としてはな りません。主がナザレにおいて福音を語られた時、人々はその恵み深い言葉を喜 びはしましたが、イエスを預言の成就であり、待望されていたメシアであるとは 認めませんでした。彼らは言ったのです。「この人はヨセフの子ではないか」。 そして、結局、主イエスとその福音を拒否したのでした。彼らは、メシアの貧し い姿につまずいたのです。メシアが貧しい方となられたことを喜べるのは、貧し い人だけです。福音が真に福音となるのは、貧しい人に対してだけであります。 主イエスの時代のユダヤ人たちは、ローマの権力のもとにある被抑圧民族であり、 多くの人々は経済的には貧しい人々であったと思います。しかし、彼らは、十字 架にまで降られたメシアの貧しさにつまずいたのであります。  先にも申しましたように、神の介入は救いであると同時に裁きでもあります。 繰り返します。福音が真に福音となるのは、本当の意味で貧しい人に対してだけ なのです。それは、今日においても同じです。今、ここにおいても同じです。 「貧しい人に良い知らせを伝えさせるために」というこの言葉を前にして、私た ちは本当に貧しい者として福音を聞いているかを問い直されているとも言えるで しょう。