2005/10/2 「悔い改めへの呼びかけ」 マタイ21:33-46 ぶどう園の主人と農夫  今日お読みしましたイエス様のたとえ話は次のような言葉で始まっています。「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」(33節)。  「もう一つのたとえを聞きなさい」と言っていますように、これは前の話からの続きです。場面は神殿の境内です。イエス様がそこで教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄ってきて、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と難癖をつけてきたのです。45節では「祭司長たちやファリサイ派の人々」となっています。そのように、今日お読みしましたたとえ話は、ユダヤ人の指導者たちに話しているのです。  彼らはこのたとえを聞いて、「イエスが自分たちのことを言っておられる」と気づいたと書かれています。ですので、このたとえに出てくる「農夫」は、祭司長やファリサイ派の人々など、イスラエルの指導者たちを指していると見て良いでしょう。そうしますと、「主人」は神、ぶどう園はイスラエルということになります。  ぶどう園の主人は、「これを農夫たちに貸して旅に出た」と書かれています。当然のことながら、農夫たちはぶどう園の管理を託されたのであり、ぶどう園を与えられたわけではありません。与えられたのは、ぶどう園における務めです。しかし、このたとえにおいて、農夫はあたかもぶどう園の所有者であるかのように振る舞うのです。  祭司長たちが察したように、イエス様は明らかに彼らのことを話しているのです。つまり、この話と同じことがイスラエルにおいても起こっている、とイエス様は言っておられるのです。祭司長やファリサイ派の人々は、民の上に立っている人々です。そのように彼らが指導的な立場にいるのは、神が彼らをイスラエルの指導者としたからです。神は彼らにイスラエルのおける務めを与えたのであって、イスラエルそのものを与えたわけではありませんでした。しかし、彼らはあたかもイスラエルの所有者であるかのように振る舞っていたのです。  要するに、イエス様が鋭く見抜いていた彼らの問題は、要するに農夫が農夫であることを弁えなくなった、ということでした。言い換えるならば、主人と農夫の関係が狂ってきたということです。まことの主人なる神との関係が狂ってきたのです。  しかし、そのようなことが起こっているのは、ただイエス様の時代のイスラエルにおいてだけではありません。私たちは他人事のように考えてはなりません。イスラエルの民の姿はこの世界の縮図です。そこには私たちもまた含まれているのです。  この世界の主人は神様です。人間がこの世界を造ったのではありません。「ぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」たのは、ぶどう園の主人なのです。しかし、この世界において、人間はあたかも被造物世界の所有者であるかのように振る舞っています。この世界を自分たちが造ったかのように振る舞っているのです。もちろん、それで困ったことが起これば、立ち止まって考えることはあるでしょう。環境問題がある。核の問題がある。なんとか解決せねばと考えます。しかし、そのようにこの世界の様々な問題に取り組むにしても、結局は「この世界の所有者である人間が困ることになるから」ということしか考えられていないのです。だから決して本質的な事柄は解決しないのです。本当の問題は、主人と農夫の関係が狂っていることにあるからです。  それは小さな個人の人生においても同じです。私たちは往々にして、自分が人生の所有者であり、主人であるような顔をして生きているものです。将来を考えるにしても、「《わたしの人生》をわたしはどうしたら充実した意味あるものにできるか」ということしか考えません。親子の関係にしてもそうです。親に与えられているのは、子供そのものではなく、子供を育てる務めなのです。しかし、親はあたかも所有者であるかのように振る舞います。「わたしの子、わたしの子」と言って。そして問題が生じてくれば、やっきになって原因探しを始めます。しかし、本当の問題は主人と農夫の関係が狂っているところにあるのです。あらゆる不幸の根っこには、この根本的な問題があるのです。 僕たちを遣わす主人  さて、たとえ話は次のように続きます。「さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた」(34-35節)。  ここに出てくる「僕たち」は、旧約聖書に繰り返し登場してきます預言者です。これを聞いている祭司長たちにとっては、洗礼者ヨハネがそれに当たります。預言者というのは、単に未来を予告する人ではありません。日本語では「言葉を預かる者」と書くように、彼らは神の言葉を託されて伝える人たちです。神はイスラエルの民に繰り返し預言者を遣わされました。立ち帰るようにと、繰り返し呼びかけられたのです。いわばぶどう園の所有者のようにではなく、農夫として生きるようにと呼びかけられたのです。そのように本来の関係に立ち帰るように呼びかけられたのです。  この主人の行動を理解する上で、40節の言葉は重要です。イエス様が「ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と問うと、聞いていた祭司長たちはこう答えました。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」。つまり聴いている祭司長たちも理解していたように、これが話の前提なのです。主人は農夫たちを直ちに全滅させることもできる。そのような力を持っている、ということです。そのことを考えるなら、主人が繰り返し「僕たち」を遣わしたということは、まことに驚くべきことだと言わざるを得ません。農夫たちは遣わされた僕たちを袋だたきにし、殺してしまうのです。そのようなことが起こったのです。にもかかわらず、主人は滅ぼすことのできる力をもって事柄を解決しようとはしませんでした。あくまでも忍耐強い呼びかけによって、解決しようとしたのです。  一方、農夫は再び遣わされた僕たちを同じ目に遭わせます。主人の呼びかけに対して、聞く耳のを持たなかったということです。そのようなことがイスラエルに事実として起こりました。そして、同じことがこの世界にも起こっています。先ほど、「問題は主人と農夫の関係が狂っているところにある」と申しました。しかし、さらに一歩進んで、こう言うことができるかもしれません。「本当の問題は、狂った関係を直そうとしない頑なさにある」と。 息子を送る主人  そこでたとえ話はさらに驚くべき展開を見せることになります。このように書かれています。「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」(38-39節)。「わたしの息子」がイエス・キリストを指していることは明らかです。イエス様は御自分のことを語っておられるのです。  しかし、それにしても、この主人の行動は愚かであると言わざるを得ないでしょう。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」ーーそれはあまりにも愚かです。しかし、このたとえに言い表されているように、神はあえて愚かになられたのです。愛し難い者を愛するということは、時として徹底的に愚かになることを意味するのです。  もしこれが反対に、人が通常思い描くような、いわゆる《賢い神》ならば、いったいどうなっていたでしょう。恐るべき神の裁きが既に降っているに違いありません。しかし、神様はそうされなかった。「主人は自分の息子を送った」ーーそう書かれています。そのように、神は御子であるイエス・キリストを送られたのです。  どんなに愚かなことであったとしても、あえて息子を送ったことによって、少なくとも主人の意思は決定的に表明されることになりました。第一に、力をもって滅ぼすことによって解決することを主人は望んでいないこと。第二に、農夫が主人との本来の関係に立ち帰ることを望んでいること。第三に、もし立ち帰るならば、主人に背いてきた罪を赦し、農夫として受け入れようとしていること。ーーそれがこのたとえに表現されている神の意志なのです。イエス・キリストという存在は、そのような意味において、この世界に対する神の意志の決定的な表明であり、最後の語り掛けであったのです。 捨てられた石は隅の親石に  しかし、そのイエス・キリストは、エルサレムの外にあるゴルゴタの丘で、十字架にかけられ殺されてしまいました。「息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」というたとえ話が現実となったのです。イエス様がこの話をしているのは、その事が起こる数日前のことです。主は御自分がどのような道を辿ることになるのかを知った上で、あえてこの話をしておられたのです。  そこで、主は祭司長たちに問われます。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と。祭司長たちは、当然予想される結末を語ります。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と。しかし、実際には、その「ぶどう園の主人」がすぐに帰ってきて、悪人たちを滅ぼすという場面そのものは、このたとえ話には出て来ません。ここで彼らが言っていることは、現実には起こっていないのです。神の最終的な裁きは降ってはいないのです。  むしろ実際に起こった出来事は、イエス様が引用した詩編の言葉に言い表されています。主は詩編118編の言葉を引用して言われました。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」と。「家を建てる者の捨てた石」とはイエス・キリストのことです。イエス様は確かに人の手によって捨てられました。十字架にかけられたということは、そういうことです。神の最後の呼びかけも無に帰してしまったかのように見えます。しかし、それで終わりではありませんでした。むしろ、そこから決定的に新しいことが始まったのです。捨てられたはずの石は、新しい家の隅の親石となったのです。  捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストが、私たちの罪を贖う犠牲となりました。そこから罪の赦しの福音が、新たに宣べ伝えられるようになりました。教会が誕生しました。イエス・キリストは、確かに教会の親石となりました。パウロが次のように書いているとおりです。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(エフェソ2:20-22)。  神はそのような形において、悔い改めへの呼びかけを継続されたのです。確かに、「神の国はあなたたちから取り上げられる」と主は言われました。しかし、それはユダヤ人が神に見捨てられることを意味しませんでした。事実、最初の教会は、主の呼びかけに応えて立ち帰ったユダヤ人たちから成り立っていたのです。神はキリストを拒んだユダヤ人たちに呼びかけ、今も恵みの内に招いておられるのです。そして、キリストを拒んできたこの世界に呼びかけ、今も恵みの内に招いておられるのです。 (祈り)  父なる神様、 あなたは繰り返し繰り返し、あなたのもとに立ち帰るようにと呼びかけてくださいます。不遜な私たちが、本来いるべきところに、あなたの主権の元に身を置いて生きられるように、絶えず働きかけてくださることを感謝いたします。あなたの慈愛と寛容のゆえに、私たちが今ここにいることを許されていますことを感謝します。常にあなたに栄光をお返しして生きる者とならせてください。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。