クリスマスイブ礼拝 「主はあなたと共に」 2007年12月24日 クリスマスイブ礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 ルカによる福音書 1章26節~38節  「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。天使ガブリエルはマリアに現れて、そう言いました。天使は言葉を続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」マリアがイエス・キリストの母親となることを告げられた、ご存じ受胎告知の場面です。  天使は「おめでとう」と言いました。確かに、オメデタの知らせですから、「おめでとう」でもよいのですが、実のところ、天使が持ってきたのはとんでもない話なのです。本当は、おめでたくもなんともない、恐るべき知らせを天使は持ってきたのです。  マリアはこの時、ヨセフと婚約しておりました。結婚の祝いの日が近づくのを今か今かと待ち望んでいたことでしょう。当時の民衆の生活は、ローマ帝国の支配のもとにあって、決して楽ではなかったに違いありません。しかし、そのようなご時勢であっても、ヨセフと共に信仰の家庭を築いていくことにささやかな幸せを夢見ていた、そんなごく普通の一人の乙女であったのです。何も大それた野心に燃えていたわけではありません。マリアが当たり前の幸福な人生を望んでいたとして、そこに何のいけないことがあるでしょう。しかし、そのようなささやかな望みが、この天使の言葉で、一瞬のうちに打ち壊されてしまったのです。天使はこう告げたからです。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。  マタイによる福音書によれば、いいなづけであるヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心した」(マタイ1:19)と書かれております。「ひそかに縁を切る」というのは、「罪を告発しないで縁を切る」ということです。大変悩んだ末のことでしょう。当然です。マリアにしてもヨセフにしても、この受胎がユダヤの社会においてどのように受け止められるかをよく知っていたはずです。マリアの出来事は姦淫の罪として告発されれば死刑の判決を免れないことでした。天使は「聖霊によって身ごもった」と説明します。しかし、どこの誰が「聖霊によって身ごもった」などという話を信じるでしょうか。仮に死刑を免れたとしても、村八分は避けられないでしょう。  しかも、これはマリアの苦難のほんの始まりに過ぎなかったのです。その後、自分の子が神の国を宣べ伝え始めると、やがて自分の子が権力者たちから敵意を向けられるようになるのです。マリアの悩みと苦しみはどれほどだったでしょうか。そしてついに、マリアはイエスの十字架の前に立つことになるのです。自らの子が血を流して死んでいくのを目の当たりにすることになるのです。  天使はマリアのもとに、このような苦難に満ちた人生を携えてきたのです。しかも、マリアの意向を打診しにきたわけじゃありません。「えー、マリアさん。あなたは救い主の母親として選抜されたのですが、どうしますか。お引き受けになりますか。」なんて、そんなことを聞きにきたのではありません。もう決まっているのです。変更は利かないのです。天使は神様のもとから来て、一方的にその苦難に満ちた人生を手渡しにきたのです。  さて、天使が現れるこういう話は、なんとなくおとぎ話のように聞こえますし、ここにもそのように聞いておられる方も少なくないことでしょう。しかし、考えてみれば、私たちにも思い当たることがありませんか。皆さんが今背負っている様々の苦しみや悩み、人生の重荷、それぞれの辛い現実、考えてみてください。皆さん、それらについて前もって打診を受けましたでしょうか。「しばらく苦しみの続く人生となる予定なのですが、お引き受けになりますか。それとも断りますか。」そんなふうに意向を尋ねてもらいましたか。そうではないでしょう。通常はまったく一方的に与えられるのです。私たちの意向とは関係なく与えられる。まさに天使が携えてきて一方的に告知するようなものではありませんか。  要するに、我々凡人には天使が見えたり、声が聞こえたりしないだけの話で、実は同じようなことは起こっているのです。そうすると、やはり気になりますのが、この天使の挨拶です。「おめでとう、恵まれた方」。苦難の人生を手渡しておきながら「おめでとう」はないでしょう。実際、私たちが一方的に与えられた苦しみについて、誰かが「おめでとう、恵まれた方」とか言ったらどうですか。腹が立ちませんか。こういう天使、どうですか。私たちなら「ふざけるな!」と一喝して、窓からたたき出して、その後数日間、「なんでわたしなの、よりによってなんでわたしなのよ。なんでわたしがこんな目に遭わなくてはならないのよ」と嘆き続けるかもしれません。そして、その後新たな苦しみが加えられる度に、「なんでわたしなの」と嘆きながら一生を歩んで、最後には「なんで今死ななくてはならないの」と言いながら、死んでいくのかもしれません。それも一つの生き方だろうと思います。  しかし、この天使の言葉は、もう一つの生き方があることを示しているのです。彼が本気で「おめでとう」と言っているならば、冗談や皮肉ではなくて、大真面目に「おめでとう、恵まれた方」と言っているとするならば、それは何を意味しますか?一方的に思いがけない苦難や重荷を与えられることがあったとしても、それは必ずしも「不幸」を意味しない。その人は必ずしも不幸な人として嘆きながら一生を送る必要はない。人生を呪いながら神を呪いながら一生を送る必要はない。その人は本当に恵まれた人であり得る。そういうことでしょう。  そこで私たちは、この状況の中で大真面目に「おめでとう」と言い放った天使の言葉をちゃんと聞かなくてはならないと思うのです。実は、彼はただ「おめでとう、恵まれた方」と言っただけではないのです。その後ひとこと、「主があなたと共におられる」と言ったのです。どうもこの言葉が「おめでとう」の鍵になっているようです。  「主があなたと共におられる」とは、どういうことですか。「神様があなたと一緒にいるよ」って聞いたら、皆さんはどう思いますか。「神様が一緒にいるよ」と言われて喜ぶ人の多くは、「自分の願っていることを実現してくれる神様が共におられる」ことだと思っているものです。「自分の望みをかなえてくださる神様が共におられる」こと、「苦しみや困難を遠ざけてくれる神様」が共におられる、そういうことだと思っているのです。そうしますと、自分の願っていないような苦難を受けることになったら、どうなりますか。自分が願っていないような人生を歩まなくてはならなくなったら、「神様は共におられない」ということになりますでしょう。  しかしこの天使は、マリアが自分の願っていないような人生を歩まなくてはならなくなったときに、こう言ったのです。「主があなたと共におられる」と。明らかに「あなたの願望を実現してくれる神様が一緒にいますよ」という意味ではありません。そうではなくて、「あなたの人生を用いてくださる神様が共におられる」ということなのです。あなたの一生があなたの思い通りにならなかろうが、苦難に満ちていようが、とにかくあなたの一生は意味を持つ。神様があなたの人生に伴って、あなたの一生を用いてくださる。なんのために?--人間の救いのために。そうやって、マリアの一生はキリストの母親としての一生として用いられたのです。  「幸福とは、自分の思い通りに生きられることだ、自分の願ったとおりに生きられることだ」と思っている人にとっては、自分の願っていないことが一方的に与えられるということは不幸なことでしかないでしょう。私が単純に思うに、そのような「願ったことの実現こそが幸福だ」と思っている人は、決して幸福にはなれません。人生には、自分の願わないことが一方的に与えられることのほうが遙かに多いわけですから。年齢を加えれば思い通りにならないことの方が圧倒的に多くなる。最後に迎える死は、それこそ思い通りにならないことの最たるものでしょう。  人間の幸福は、神様と共に歩んで、神様に用いていただくところにこそあるのです。自分の一生を誰かのために。誰かの救いのために。神様が誰かを愛するために、自分の一生を用いていただく。そこにこそ人間の幸福はあるのです。だから「おめでとう」なのです。思い通りにならない人生でも「おめでとう」なのです。辛いことだらけの人生でも「おめでとう」なのです。マリアは、天使が携えてきた苦難に満ちた人生を、「おめでとう」という言葉と共に受け取りました。そこに私たちはマリアの信仰を見ることができると言えるでしょう。彼女はこう言って受け取ったのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」  2007年のクリスマス・イブの夕べに、皆さんがここにいることは単なる偶然ではありません。神様が皆さんをここに導かれました。神様が天使をそれぞれの人生に遣わされたのです。私は神様が遣わされた天使に代わって、皆さんにあの時と同じ言葉を宣言します。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。あの時のマリアと同じように、ぜひ今日、この言葉を受け取ってください。