「あなたがたの信仰はどこにあるのか」 2008年8月10日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 ローマの信徒への手紙 4章18節~22節 アブラハムは主を信じた  旧約聖書に出て来るアブラハムという人物は、しばしば「信仰の父」と呼ばれます。「信仰とは何か」を考える上で、重要な人物です。パウロも信仰について語る時、この人を引き合いに出しています。今日はローマの信徒への手紙4章18節からお読みした。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(18節)と書かれています。この「彼」とはアブラハムのことです。アブラハムは神様から「あなたの子孫はこのようになる」と言われたそうです。  これは創世記15章に出て来る話です。この時、アブラハムはまだ「アブラム」という名前でしたが、そのアブラムには子供がいませんでした。しかし、神様はアブラムを外に導き出し、満天の星空を見上げさせてこう言われたのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われました。「あなたの子孫はこのようになる。」ですから、パウロが引用している「あなたの子孫はこのようになる」は、「あなたの子孫は星の数ほどになる」という意味でした。そこでアブラムはどうしたのでしょうか。聖書にはこう書かれているのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。  アブラムは主を信じた。これは明らかに、「神様が存在すると信じた」という意味ではありません。そうではなくて、アブラムは主なる神が真実であると信じたのです。主の約束をしっかりと受け止め、約束してくださった御方を信じて、信頼したのです。その全面的な信頼こそ、まさに神と人との正しい関係なのです。アブラムは神との正しい関係にあった。神様はアブラムが神との正しい関係にある者として受け入れられたのです。  ところがその後、いつまで経っても子供が生まれることはありませんでした。アブラハムも妻のサラも齢を重ねていきます。ついにおよそ百歳になってしまいました。主は、「あなたの子孫は星の数ほどになる」と言われたのです。しかし、目に見える現実はその約束から遠ざかっていくのです。神の言葉と目に見える現実とが一致しなくなっていくのです。今、目に見えている現実によるならば、神は不真実であると言わざるを得ない。主は信頼に価しないし、主を信じてきたことは愚かなことであったと結論せざるを得ない。そのような状況にアブラハムは置かれたのです。  しかし、今日の聖書箇所には何と書かれていましたか。「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです」(4:19‐22)。  そうです。大事なことは、いったいどちらを信じるのか、ということなのです。今、目の前に見えている現実を信じるのか。それとも主の約束を信じるのか。彼は現実をしっかりと見ています。見ていないわけじゃない。既に自分の体が衰えていることも見ているのです。妻サラの体も子を宿せないことを知っているのです。しかし、それでもなお信仰は弱まらなかった。不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなかったのです。神は不真実であると結論することはなかったのです。それでもなお、神は真実であると信頼して、アブラハムは神を賛美したのです。  神が義と認めた信仰は、ただその時、一時的に主に信頼することではありませんでした。そうではなくて、どこまでも信じ抜くことなのです。人間の目にどんなに不可能に見えても、神は約束したことを実現させる力をお持ちだと信じ、神に信頼することなのです。そうです。主を信じるということは、今、目の前に見える現実ではなくて、目に見えない神の真実の方を信じること、神の御言葉の方を信じること、そちらを選び取っていくことなのです。 あなたがたの信仰はどこにあるのか  さて、似たような話がイエス様の物語にもあります。今日の福音書朗読として読まれたルカによる福音書8章に出て来る話です。「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、『いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』と互いに言った」(ルカ8:22‐25)。  イエス様は「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたのです。イエス様が「向こう岸へ渡ろう」と言われたのなら、必ず向こう岸に渡るのです。イエス様は完全にそのつもりでおられた。だから寝ていたのです。突風が吹こうが何が起ころうが、眠っていたのです。向こう岸に着いたら起きるつもりでいたのです。  一方、目に見える現実としては突風が湖に吹き下ろしているのです。弟子たちは漁師ですから経験から分かるのです。これは非常に危険だ。このままでは舟が沈む。自分たちは全員溺れ死ぬことになる。イエス様の言葉によれば舟は向こう岸に渡る。しかし、目に見える現実は沈みつつある。弟子たちはどうしましたか。イエス様を起こしてこう言いました。「先生、先生、おぼれそうです。」弟子たちはどちらを信じましたか。向こう岸に行くつもりで寝ているイエス様の方ですか。それとも目の前の嵐の方ですか。向こう岸へ渡ろうと言われたイエス様の言葉の方ですか、それとも漁師としての自分の経験の方ですか。彼らは自分が見てきたこと経験してきたこと、そして今、目の前に見えていることだけしか信じられなくなっていたのです。  しかし、そもそもなぜ今、湖の上に彼らはいるのでしょう。それは、あの最初の日にイエス様を信じて従ったからでしょう。そうです、イエス様に信頼して従うところから始まったはずなのです。「わたしに従いなさい」と言われるイエス様に信頼して従ったところから始まったのです。ならばどこまでも信じることが大事なのでしょう。信じ抜くことが大事なのでしょう。  ですから、イエス様は嵐を鎮めた後に、その弟子たちに言われたのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。そうです。弟子たちは、このイエス様の言葉を生涯忘れ得なかったに違いない。繰り返し繰り返しこの言葉を思い起こしたに違いないと思うのです。なぜなら、弟子たちが嵐の中に置かれるのは、これが最後ではなかったからです。いや彼らにとって本当の嵐は、イエス様が捕らえられて十字架にかけられた時にこそ襲い来たのであって、そのイエス様が復活されて彼らに現れた時にこそ、彼らは本当の意味で問われることになったに違いないのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と。  さて、そのように私たちは常に、神とその約束を信じるのか、最終的にイエス・キリストを通して語られた神の御言葉を信じるのか、それとも私たちの目の前に見えていること、私たちがそれを見て感じたり思ったりしていることを信じるのか、その二つの間に立たされていると言えるでしょう。  神の御言葉は、神は私たちを愛していてくださる、と語ります。神は独り子を賜ったほどに、世を愛されたと言います。しかし、私たちの目に映ることだけを考えるならば、神がこの世を愛しているようには思えないこと、私たちが神に愛されているとは思えない時はいくらでもあります。その時、いったいどちらを信じるのでしょうか。神の言葉でしょうか。それとも私たちが見ていること、感じていること、思っていることの方でしょうか。祈っていても、なかなか祈りが聞かれない時、アブラハムのように待たされる時、私たちの目に見えていることと神様の約束との言葉の間が開いてくる。しかし、それでもなお御言葉は、神が私たちを愛していてくださると語るのです。そして、私たちに問いかける声がある。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と。  神の御言葉は、キリストが私たちの罪の贖いを成し遂げられたと語ります。それゆえにどんな罪人であっても、ただイエス・キリストを信じる信仰により、罪の赦しを受け、義とされ、救われると語ります。だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである、と語ります。しかし、私たちの目に映っているのは、今まで罪を犯して生きてきた私たち自身です。私たちの心に焼き付いているのは、取り消すことのできない私たちの行為の一つ一つです。ですから私たちの心は言います。「わたしは取り返しの付かないことをしてしまった。私の罪の負債は消えることがない。わたしは決して救われることはない」と。そこで問題は、どちらを信じるのか、ということなのです。私たちが目で見ていること、そして私たちの心が語ることなのか、それとも「あなたは義とされた者なのだ」と言われる神の御言葉か。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。  また神の御言葉は、私たちは聖霊の働きによって、主と同じ姿に変えられると語ります。それが約束の言葉です。神様は私たちを変えることがおできになる。いつまでも惨めなままでいる必要はないのです。聖霊によって、私たちは変えられるのです。最終的に、私たちの救いは完成し、私たちは完全な者とされるのです。しかし、現実の自分を見ると、とても変われるようには思えない。これを見て私たちの心は語ります。「今まで何も変わらなかったじゃないか」。そう、ちょうどアブラハムが約束された子供の誕生を見ることもないまま何十年を過ごしたように。しかし、そこで問題は、やはりどちらを信じるのか、ということなのです。私たちの目に見えるところを信じ、心が語ることを信じるのか。それとも神の約束を信じるのか。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。  私たちは神の約束の中にあるのです。まだ見ていないならば、見るまで待ち望むのです。信じて待ち望むのです。アブラハムは希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じたのです。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美したのです。そうです。私たちも共に、約束を実現する力をお持ちの方を信じ、心から誉めたたえましょう。