「あなたの未来には希望がある」 2009年1月4日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マタイによる福音書 2章1節~12節 沈黙と従順  今日の福音書朗読では、東方から来た占星術の学者たちが幼子イエスのもとに来たという先週の話の続きをお読みしました。ところで、ページェントでは博士たちが馬小屋を訪ねてきて、そこで羊飼いたちと鉢合わせになるわけですが、実はマタイによる福音書では博士たちが馬小屋に訪ねてきたようには書かれておりません。11節を見ますと、そこは馬小屋ではなくて「家」と書かれています。また博士たちが訪ねてきたのも、幼子が生まれた直後ではなく、既に幼子が二歳ちかくに成長した頃だと思われます。それはヘロデが二歳以下の男の子を殺させたことから分かります。要するにマリアとヨセフと幼子イエスはベツレヘムに住んでいたのです。そこに彼らの生活の場があったのです。  しかし、今日の聖書箇所に入りまして、その平穏な生活は終わりを告げることになります。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と神様がヨセフに命じられたのです。その理由は「ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」ということです。しかしヨセフにしてみれば、なんで自分の子が命を狙われなくてはならないのか、皆目見当も付かないのです。それはまさに彼らにとっては降って湧いたような災難としか言いようがありません。そのような、訳の分からない理由のために、知人もいない、右も左も分からない外国に逃亡して、そこに寄留しなくてはならないのです。そんなところで、どうやって生きて行けというのでしょう。しかし、ヨセフは神の言葉に従ったのです。「起きて、夜のうちに」という言葉に、ヨセフの従順がよく言い表されています。  ちなみにイエス様の降誕の物語には、一つ興味深いことがあります。イエス様の誕生の物語において、これほどヨセフが大事な役割を演じていますのに、一言も台詞がないのです。マタイによる福音書だけではありません。ルカによる福音書でも同じです。ヨセフは何一つ語りません。そして、従うのです。沈黙と従順。それがヨセフの姿から受ける印象です。マリアが身ごもったときもそうでした。ヨセフにとって、まさに青天の霹靂です。しかし、彼はつぶやきません。不平を言いません。神の指示に従って、マリアを迎え入れるのです。そして、それで終わらなかったというのが今日お読みした話です。またもや理由の分からぬ苦労を科せられて生活は乱されます。しかし、彼はつぶやきません。従うのです。  このヨセフについては「正しい人であった」(1:19)と書かれていたことを覚えていますでしょうか。ここまで読みますと、私たちの想像する「正しい人」とは随分違うと思わされます。正しい人はしばしばつぶやくのです。嘆いたり不平を言うものです。「正しく生きているのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのだ」と神にさえ文句を言いたくなる。しかし、ヨセフは神の前に沈黙するのです。そして、苦しみの中で神の導きを求め、導きに従って生きていきます。繰り返されているのは「主の天使が夢で現れて」という言葉です。要するに大事な決断は神の導きによったのであって、人によるのではない、ということです。ヨセフは単に人間の言葉によって動いたのではない、ということが強調されているのです。どちらかと言えば、私たちはしばしば神に対してぶつぶつ言いながら、人からの言葉ばかりを求めて訪ね歩きます。そのような時は、結局はただ自分に都合の良いことを言ってくれる人を探しているだけなのでしょう。ヨセフは丁度それとは逆であったということです。  もう一つ注目すべきことがあります。15節にこう書かれています。「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」。マタイによる福音書に繰り返しこのような表現が出て来ることにお気づきでしょう。何を意味していますか。彼らは神の御計画の中にあるということです。エジプトへの逃亡という、まさに降って湧いたような災難も、神の御心が実現するための計画の一部だったということです。預言者が既に語っていたとはそういうことです。  先に見てきましたヨセフの従順を思い起こしてください。一方において、人間の計り知れない神の計画がある。しかし、神の計画は人間とは無関係に進んでいくわけではないのです。もう一方に、つぶやかずに黙して従う人間の従順がある。今日お読みした箇所において、この二つが鮮やかに一つになっているのです。そのように神の御心と人間の従順とが一つになることで、人間を救おうとしている神の御心が実現していくことを、私たちはこの物語の中に示されているのです。 罪の世界に残されたイエス  さて、ヘロデの宮殿では騒ぎが持ち上がっていました。占星術の学者たちが帰ってこないことにヘロデが腹を立てたのです。そして、恐るべき命令を下しました。16節以下をご覧下さい。  「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。     『ラマで声が聞こえた。     激しく嘆き悲しむ声だ。     ラケルは子供たちのことで泣き、     慰めてもらおうともしない、     子供たちがもういないから』」(16-18節)。  「こうして、預言者エレミヤを通して負われていたことが実現した」。そう書かれています。15節の「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とは違う言い方がされていますでしょう。「こうして(その時)、実現した」という言い方をしているのは、あたかも神がこのことをもともと望んでいたかのようにこの物語が読まれないためでしょう。悲しいことに、神様が言った通りになってしまった。何によってですか。人間の罪によってです。  ヘロデは自分の王位を守るのに必死でした。王であり続けようとしました。彼はそのために、自分の妻や子供たちさえ処刑したと伝えられております。ですから、ここに書かれているような出来事は、十分あり得たことでした。彼は、メシアがベツレヘムに生まれることを聞きました。しかし、そのメシアを抹殺しようとしたのです。自分が王であり続けるためです。これは神の主権とヘロデの王権との戦いです。ヘロデは神の支配を受け入れませんでした。その結果が、この血なまぐさい悲劇です。  もちろん、ここに書かれていることは、決して特別なことではありません。歴史の中に繰り返されてきたことであり、今日もなお続いていることです。神の支配を受け入れようとせず、あくまでも人間を中心に据えようとするこの世界の悲惨な現実です。そのように悲しみの叫びが絶えない世界。しかし、神はそのような世界のただ中に、幼子イエスを残されたのです。幼子イエスを残されたのは、私たちを救うためにどうしても成し遂げなくてはならない御計画があったからです。それはイエスを罪の贖いの犠牲として十字架にかけるということです。それは私たちの罪を贖い、救いの道を開くためでした。そのように、私たちの救いを実現するために、幼子イエスを残されたのです。  この場面は、モーセが誕生した時によく似ていますでしょう。あの時もファラオが全国民に「生まれた男の子は一人残らずナイル川にほうり込め」と命じたことが、出エジプト記の初めの方に書かれています(出1:22)。しかし、出エジプト記は何を伝えていますか。ファラオがどれほどの権力を持っていたとしても、幼子モーセを滅ぼすことはできなかったということを伝えているのです。そのモーセによって、イスラエルはエジプトから救い出されることになる。ファラオがどれほどの力を持っていたとしても、神の救いの計画を阻止することはできませんでした。マタイは明らかにその出来事を念頭において書いています。ヘロデがどんなことをしてもキリストを抹殺することはできなかった。人間は神の救いの計画を阻止することはできない、と。それゆえに人間の悲しみと嘆きが終点ではないのです。  実は、マタイが引用しているエレミヤ書31章15節には続きがあります。恐らくそのことを知った上で引用しているのです。本日の第一朗読で読まれました。この預言の言葉は次のように続きます。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」(エレミヤ31:16-17)。そのように、嘆き悲しむ声で終わらないのです。主は「泣きやむが良い」と言われる。「あなたの未来には希望がある」と主は言われるのです。  確かに人間の罪は悲惨な現実をもたらします。嘆きと悲しみの叫びをもたらします。しかし、繰り返しますが、それが終点ではないのです。最後に残るのは人間の罪とその結果ではないのです。私たちが見ている現実が最終的な現実ではないのです。神が救ってくださる。神の救いの御業は進んでいる。ですから最後に残るのは神の救いなのです。神はイエスをこの地上に残されました。神の救いの計画は、人間の罪によっても止められることはなかった!今日朗読されたのは、そのような福音の物語なのです。それゆえに、この物語は私たちにも語りかけているのです。「あなたの未来には希望がある」と。  しかし、神の救いの御計画が人間の罪によって止められることはないと語られる一方で、先にも申しましたように、神の救いの御計画は人間とは無関係に神様だけで進めていかれるわけではないのです。神はあえて人を用いられるのです。イエス・キリストが地上に残されるためにヨセフの従順が用いられたようにです。主は救いの完成に至るまで、教会を用い、ここにいる私たちを用いようとしておられるのです。主がこの世の救いのために求めておられる人は、知恵ある人でも力ある人でもありません。つぶやかない人。不平を言わない人。どこまでも神の愛に信頼して生きる人。そして、御心を尋ね求め、黙って従う人なのです。