「毒麦を抜いてはならない」 2009年8月30日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マタイによる福音書 13章24節~30節  今日はイエス様のなさったたとえ話をお読みしました。「毒麦のたとえ」です。これはマタイによる福音書だけに記されている話です。今日の聖書朗読に入っていませんが、36節以下ではイエス様がこのたとえ話について解説してくださっています。 この世界の話として聞く  たとえ話そのものは至って単純な話です。ある人がよい種を畑に蒔きました。麦の種を蒔いたのです。すると人々が眠っている間に、敵が来て、毒麦を蒔いて行きました。毒麦とよい麦は、ある程度成長しなければ見分けがつきません。実る頃になって、僕たちが異変に気づきます。偶然雑草が混ざったという程度ではない。明らかに異常な量の毒麦が生えているのです。僕たちは主人に報告して言いました。「どこから毒麦が入ったのでしょう」。主人は、「敵の仕業だ」と言いました。  毒麦は有害な植物です。ですから僕たちは一刻も早く抜き集めようといたします。ところが主人は言うのです。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」(29-30節)。これがイエス様の語られたたとえ話です。  次にイエス様の説明を聞いてみましょう。38節に「畑は世界」と語られています。そして、39節には「毒麦を蒔いた敵は悪魔」であると語られています。悪魔がこの世界に毒麦を蒔いている。ーーなるほど、言われてみれば、その通りでしょう。誰の目にも明らかなことは、この世界には良い麦と呼べるものだけが成長しているのではない、ということです。確かに毒麦が存在しているのです。しかも力強く成長しているのです。  実際、悪魔の仕業としか思えないような事が起こります。なんでこんなことが起こるの?なんでこんなことが許されるの?なんでこんな人々が野放しにされているの?なんで悪いことをする奴らが力をもって成長し、正直者は馬鹿を見るの?実は、そのような疑問を抱く人は旧約聖書の時代にもいたわけで、例えば詩編73編の作者も次のように歌っています。「神に逆らう者の安泰を見て、わたしは驕る者をうらやんだ。死ぬまで彼らは苦しみを知らず、からだも肥えている」(詩73:3-4)。そうです、時として毒麦は良い麦以上に成長するものです。  しかし、聖書が語っているのは、蒔かれた種とその成長だけではありません。刈り入れの時についても語っているのです。39節を御覧ください。「刈り入れは世の終わりのこと」と語られています。つまり、この世界がこのままで永遠に続くのではない、ということです。刈り入れの時が来るのです。結論が出る時が来るのです。毒麦は集められ、火で焼かれることになる。すなわち、最終的に神様が正しく裁かれるということです。神様が正義を行われるのです。明らかにこれが、イエス様の語られたたとえ話の第一の意味です。 特に教会の話として聞く  しかし、私たちはもう少し身近なこととして、このたとえを聞く必要がありそうです。というのも、ここで「良い種を蒔く者は人の子」(37節)と書かれているからです。「人の子」というのは、キリストのことです。キリストの種蒔きについて語られているのです。確かに「畑は世界」と言われています。しかし、キリストの種蒔きが関わっているのは、世界の中でも特に「教会」でしょう。私たちは、このたとえ話で、特に「教会」のことを考えなくてはならないのです。するとここにいる私たちにとって一気に身近な話となってまいります。そこで私たちは教会にいる私たち自身のことを考えながら、このたとえ話の中に自分の身を置いてみることにしましょう。さて、皆さんはどこに自分の身を置きますでしょうか。  ある人は「毒麦」のところに身を置いてイエス様の言葉を聞くかもしれません。「わたしは、教会に来てはいるけれど、本当は神様から見たら毒麦かもしれない。わたしは洗礼を受けているけれど、毒麦かもしれない。この世界の悪人と、本質的には大した差はないんじゃないだろうか。ならば、こうして教会生活をしていても、最終的には毒麦として集められ、火で焼かれてしまうのではないか。」??そのように、「毒麦」のところに身を置くと、このたとえ話は、たいへん恐ろしい話になってまいります。  一方、「良い麦」のところに身を置いてこのたとえ話を聞く人もいるかもしれません。自分を「良い麦」のところに置くならば、こうなりますでしょう。「いるいる。確かにいる、毒麦!この教会にもいますねえ。あの人とこの人は、ぜったいに毒麦ですよ。今は、教会でいい顔しているけれど、最後には絶対に火で焼かれるね。間違いない。」どうでしょう。教会がそのように「良い麦」に身を置いて考える人ばかりになったら、それはたいへん困ったことになるような気がしませんか。  いや、それはまだ良いのです。このたとえ話には「僕たち」も出て来るのです。「では行って抜き集めておきましょうか!」僕たちのところに身を置いたら、そうなりますでしょう。僕たちから見れば、毒麦は一刻も早く抜き取ってしまわなくてはならないのです。それは良い麦に害を及ぼすからです。黙ってなどいられない。じっとしてなどいられない。とにかく早く対処しなくては!  そのように「教会の中に毒麦が放置されていてはならない。抜き集めてしまわなくてはならない。教会は良い麦だけの教会でなくてはならないのだ」という考えは、教会の歴史の中に繰り返し現れてまいりました。この僕たちと同じことを教会が言うことは決して珍しいことではないのです。ですから、ある時には毒麦と見える人たちを追い出してしまう。あるいはそれができなければ、自分たちが出ていって、純粋な《良い麦教会》を作ろうとするのです。 風変わりな主人の話として聞く  そのように、どこに身を置くかで、このたとえ話の中に見えてくるものが違ってきます。しかし、どこに身を置くにせよ、大事なことは、そこから「たとえ話の中心」に目を向けることです。たとえ話の中心は、良い麦でも、毒麦でも、毒麦を蒔いた敵でも、「毒麦を刈り取り計画」を提案をする僕たちでもないのです。そうです、このたとえ話の中心は「主人」なのです。そして、その主人は実に奇妙な人なのです。  どう考えても常識的なセンスを持っているのは、この「僕たち」の方です。毒麦は実ればやっかいなことになります。そうなる前に、早めに対処しなくてはなりません。刈り入れの時には、良い麦だけの畑にしておかなくてはならないのです。しかし、主人は「待った」をかけます。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言うのです。その理由は何ですか。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」?ーーこれが理由です。こんなことを現実の世の中で言っていれば、人々の笑い者です。毒麦を抜くときに、少々良い麦が抜かれてしまうのは、当たり前の話だからです。たいていは根がからんでいるのですから。それでも最終的に収穫が良ければそれで良いではありませんか。それが常識というものです。  しかし、この主人は異常なほどに、一本一本の麦にこだわるのです。そのように、私たち《ひとりひとり》に神様は異常なほどに関心を向けられるのです。どうでもよい存在ではないのです。真剣に取り扱われるのです。ですから、刈り入れの時まで待つのです。終わりの時まで待つのです。神様はそのような御方なのだ、というのです。神様は、早急に裁くことをされないのです。終わりの時までは、純粋に良い麦だけの畑を求められないのです。じっくりと忍耐をもって、時が来るまで待たれるのです。聖書が終わりの時の神の裁きについて語っているということは、言い換えるならば、その終わりの時までは、神は忍耐強く待たれる、ということでもあるのです。神が「終わりだ」と言われるまでは「終わりじゃない」ということなのです。 イエス・キリストの言葉として聞く  しかし、少々理屈っぽいことを言いますならば、この主人の言葉は、「毒麦」にとっては救いにはなりません。そうでしょう。毒麦はあくまでも毒麦です。神様が終わりの時まで裁かずに待たれる。忍耐強く待たれる。ーー確かにそうかもしれません。しかし、毒麦の立場からするならば、火に焼かれる時を先送りされただけに過ぎません。ならば今裁かれるのと、終わりの日に裁かれるのと、本質的な違いがありますか。ないでしょう。私たちがもし毒麦であるならば、「刈り入れまで育つままにしておきなさい」という言葉は、有り難い言葉でも何でもないはずです。  実は、私たちはここで、もう一つの事実に目を向けなくてはならないのです。このたとえを《イエス・キリストが語られた》という事実です。教会は、このたとえを、「イエス・キリストが語られたたとえ話」として伝えてきたのです。そのイエス・キリストとは、私たちの罪を贖うために十字架にかけられて死なれたイエス・キリストです。  確かに神は良い麦と毒麦を一緒くたにはされません。「どちらであっても良いのだよ」とは言われません。最終的に、良い麦と毒麦が区別される。「刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」と主人は言うのです。そのような、ある意味でとても恐ろしい話でもあります。  しかし、このたとえ話はイエス・キリストの語られたたとえ話なのです。救い主が語られたたとえ話です。救い主によって罪の赦しの扉が開かれているところで語られているたとえ話なのです。罪の赦しの扉が開かれているということは、言い換えるならば、本来ならば滅びるはずの毒麦が、良い麦として倉に取り入れられる可能性があるということです。自然の農業においては、毒麦はあくまでも毒麦です。良い麦にはなりません。しかし、神の農業においては、毒麦が良い麦になり得るのです。良い麦としてスタートできるのです。罪の赦しがあるならば、そこには悔い改めと、新しいスタートもあり得るのです。毒麦に留まっている必要はない。毒麦であり続ける必要はないのです。  どうでしょう。もし神様という主人が、あの僕たちの提案に従って、「今すぐ毒麦を抜き集めてしまいなさい」と言われる御方なら、私は、とうの昔に抜き集められ滅ぼされていたに違いありません。それは皆さんにしても同じであろうと思います。しかし、神はそのような主人ではありませんでした。神は終わりの日まで待たれます。結論を出さずに待たれます。人がイエス・キリストを通して与えられた恵みを受け取り、罪の赦しにあずかって、良い麦として生き始め、良い麦として生き続け、失敗したとしても何度でもやり直し、最終的に良い麦として刈り入れられることを神様は望んでおられるのです。そのことのために、神様はどこまでも忍耐強く私たちに関わってくださるのです。  「行って毒麦を抜き集めておきましょうか」ーー神はその提案に対して「ノー」と言われます。神は忍耐強い御方です。そのようなミニストリーを神様は求めてはおられません。それゆえに、私たちは他の人に対して、早急に結論を出すのではなくて、断罪するのではなくて、神様の忍耐と寛容とを思いつつ関わっていくことが求められているのです。いや、他の人に対してだけではありません。私たちが本当に忍耐強く寛容をもって関わらなくてはならないのは、自分自身に対してであるかもしれません。自分をも「毒麦だ。抜いてしまおう」と言って早急に断罪してしまわないことです。本当に大事なことは、毒麦が発見されることでも、毒麦が抜き集められることでもないからです。いつでも大事なことは、毒麦が良い麦に変えられていくことだからです。