「天の国は隠された宝」 2009年9月6日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マタイによる福音書 13章44節~52節 いのちより大切なもの  星野富弘さんの詩画集の中にこんな詩があります。    いのちが一番大切だと    思っていたころ    生きるのが    苦しかった    いのちより大切なものが    あると知った日    生きているのが    嬉しかった  ご存じのとおり、星野富弘さんはもともとは中学校の体育の先生でした。24歳の時にクラブ活動の指導中に模範演技に失敗して、首の骨を折ってしまい、手足の自由を失ってしまった星野さんは、入院中に口に絵筆をくわえて絵を描くようになり、そこに御自分の詩を添えられるようになりました。星野さんが、キリストと出会い、洗礼を受けられたのも、入院中のことでした。そんな星野さんが書かれた詩の一つです。  「いのち」??この世の命。それは、ある意味では日々削られ、失われていくものであると言えます。単に寿命の話ではありません。この世の命は様々な形で削り取られ失われていきます。星野富弘さんがあっという間に手足の自由を失ってしまった時、病室において全く動けなくなった自分を見出した時、それは自分の命の大きな部分が削り取られたという経験であったに違いありません。いや、星野さんにしてみれば、自分の命の本質的な部分のほとんどを失ったに等しかったのだと思います。  そのように、この世の命は様々な形で削り取られ、失われていきます。ある人は、病気によって命が削り取られるのを経験するでしょう。ある人は、愛する人との別れによって、命が削り取られるのを経験するでしょう。ある人は、挫折によって夢を失って、命が削り取られるのを経験するでしょう。ある人は、自分自身の老化によって、命が削り取られていくのを経験するでしょう。この世の命は削り取られていきます。失われていきます。完全なままで保っていくことができないのです。  もし「いのちが一番大切だ」と思っているならば、その「一番大切なもの」が削り取られていくのですから、それは苦しいことであるに違いありません。元気な時、すべてが順調である時、削られていることに気付かない時には、苦しみも気付かない程度のことなのでしょう。しかし、やがて「一番大切なもの」が削られて削られて、いよいよ小さくなっていっていることに気付く時が来ます。ある時には、一気に大半を失うことも起こってくる。そのことに気付き、そのことを実感する時、生きることは苦しみになる。それは本当だと思います。  ならば人が「いのちより大切なもの」を見出すということは、絶対に必要なことであると言えるでしょう。私たちは、この失われゆくもの、この「いのち」より大切なものがあることを知らなくてはならないのです。「いのちより大切なもの」??イエス様は確かにそれが「ある」と言われます。イエス様は十字架へと向かう歩みによって、そして十字架の上で、そのことをはっきりと示してくださいました。まさに命が大きく削られて、その全てが奪われていく歩みによって、いや、正確に言うならば、その全てを捧げていく歩みによって、「いのちより大切なもの」があることを示してくださったのです。 天の国は隠された宝  その「いのちより大切なもの」を、イエス様は今日の聖書箇所において、畑に隠された宝として、また商人が追い求めている高価な真珠にたとえて教えてくださっています。イエス様の言葉をもう一度、聞いてみましょう。  「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(44節)。   「いのちより大切なもの」。それはイエス様の言葉によれば「天の国」です。「天の国」と言いましても、いわゆる「天国」「死後の世界」の話ではありません。「天」というのは「神」の言い換えです。ですから他の福音書には「神の国」となっています。国というのは場所のことではありません。支配のことです。ですから、「天の国」とは「神の支配」のことです。  神の支配は畑に隠された宝のようなものです。隠されていて見えないのです。現実にそうでしょう。自分の命が削られていく現実、他の人の命が削られていく現実、自分の人生に起こること、この世界に起こること、これらを普通に眺めるならば、そこに神の支配は見えない。むしろ神がおられるなら、どうして?と言わざるを得ないことが起こります。ですから時に人は言うのです。「神も仏もあるものか!」と。  しかし、そのような世界のただ中で、ある人は宝を見出すのです。今まで見えていなかったものを見るようになるのです。神の支配があることを知るのです。神が愛していてくださること、自分は完全に神の支配の中にあること、神は自分にも御支配の中で御計画を持っていてくださり、その愛の御手をもって導こうとしていてくださることを知るのです。その愛の御手をもって完全な救いの世界へと導き入れようとしていること、まさに、かつてモーセに導かれたあのイスラエルのように、約束の地へと導かれているのだということ、そのことを知るのです。  そのことを知った人は、さらにその神様と共に生きたいと願い始めます。その神様の愛の中を生きていきたい。神の愛の支配の中にあることを喜んで生きていきたいと願うようになります。ただ命が削られていくことを嘆いて生きるのではなくて、誰かに削り取られたことを恨みながら生きるのではなくて、「いのちよりも大切なもの」に目を向けて生きていきたいと願うようになる。その時、人は確かに、このたとえ話に登場する人のように、喜びに溢れていそいそと持ち物を売り払う人のように生きていくことができるのでしょう。彼の持ち物は手元から無くなるのです。でも、この人の頭の中には、畑に隠されている宝のことがあるのでしょう。持ち物よりも大切な、隠された宝のことを思ったら、もう嬉しくて嬉しくて仕方ないのでしょう。  第二のたとえ話にしても、基本的なメッセージは同じです。商人が良い真珠を見出した。もう二度と巡り会うことができないような真珠を見出した人の話です。彼は、あちらこちらを旅して回って良い真珠を捜し求めてきたのでしょう。昔の話ですから、必ずしも思い通りに旅が進むとは限らない。パウロの宣教旅行の話を読むと、それが良く分かります。困難も生じます。長い期間、停泊地で足止めを食うこともあります。そのように商人の旅には予定外のことがつきものです。しかし、その商人がまさにこれぞという真珠と巡り会う。すべての不都合はまさにこの真珠との出会いのためであったかのようにも思えてくる。当然のことながら、彼は持てるすべてを売り払います。手放します。惜しくもなんともない。大喜びです。真珠のことを思ったら、もう嬉しくて嬉しくてたまらない。そんな話です。 畑に隠された宝を思って生きる  これが聖書の語る信仰生活なのです。考えてみてください。実際、迫害の時代のキリスト者は、文字通り不当な仕方で自分の持ち物や自分の命さえも奪われることを良しとしたのです。なぜですか。宝が見えていたからです。真珠が見えていたからです。いや、奪われることを良しとしただけではありません。むしろ、積極的に捧げて生きたのです。自分の命、自分の人生を捧げて生きた。自分の時間、自分の能力、持ち物、お金、あるいは文字通り「いのち」を、誰かを愛するために、誰かの救いのために、捧げて生きたのです。そして、どんなに犠牲を払ったとしてもなお、「わたしはこんなに犠牲を払っている」という意識にはならなかったのでしょう。なぜですか。宝を知っているからです。真珠を知っているからです。その人にとっては、どんな犠牲さえも、いわば宝を思いながら、真珠を思いながら、いそいそと持ち物を売り払うようなものだったのです。そのような人々がいたのです。だからこそ、今の私たちもいるのでしょう。そのような人々がいたからこそ、ここに教会も建っているのです。  そのように畑に隠された宝を思って生きる。やっと巡り会えた真珠を思って生きる。そのように、「いのちより大切なもの」を思いながら生きていく。それが信仰生活なのです。「いのちよりも大切なもの」を知ったなら、ある意味で、この世の命は惜しまず使っていくことができるのでしょう。恐れることなく使っていくことができるのでしょう。神の御計画の中にあって、神の導きのもとにあって、神の目的のために使っていくことができる。大切なことは、畑に宝が隠されていることを知り、畑に宝を見出すことです。価値ある真珠を見出すことです。  そして、そのためにこそイエス様は来てくださったのです。最初のたとえ話について言いますならば、この人はたまたまラッキーにも宝を見つけたという話になっていますけれど、実際には、それですべてが語り尽くされているわけではありません。私たちの場合、ちょっと違うと思いませんか。私たちの現実を話にするならば、どうなりますか。私たちが畑を一生懸命耕していますと、ある人が来て、「ここを掘ってごらんなさい。実は宝が隠されているんだよ」と教えてくれた。いわば、そのような話になると思います。  そのようにイエス様は、その身をもって、天の国、神の国を指し示し、また自らの姿をもって、神の国を見せてくださったのです。この十字架の苦しみさえも、神の支配の中にあるのだよ。神の愛の御計画の中にあるのだよ。神の手の外で起こっているのではないのだよ。そして、その神の愛の支配の中に、あなたもいるのだよ、と。神は、独り子をさえ惜しまず与えるほどに、そして、罪の贖いとして十字架にかけられるほどに、この世を愛された。あなたをも愛された。そして、あなたを完全な救いの世界へと導いておられる。イエス様は、「隠されていて見えないけれど、確かに宝はあるよ」と教えてくださり、信仰の目をもって見出すことができるようにしてくださったのです。  そして最後に、三つ目のたとえ話について一言。湖に投げ降ろされた網のたとえです。なぜこの話が続くのでしょう。それは、「どんな時に天の国が一番見えにくくなるか」を考えると分かります。それは悪の力の方がこの世界を支配しているように見える時でしょう。そして、この世の悪によって、誰かの悪によって、不当に何かを奪われる時でしょう。そのような時、自分が神の愛の支配の中にあることが見えにくくなるし、信じることが困難になるのです。実際どうでしょう。自分から不当に何かを奪った「悪人」の方にばかり意識が行って、「いのちよりも大切なもの」に思いが向かなくなる。怒りと憎しみに支配されてしまって、本当の意味で自分の命を使うべきところに使えなくなる。悪が現実に存在するこの世の中にあって、本当にしなくてはならないことがあるはずなのに、それができなくなる。そのようなことが起こります。  そのような私たちに対して、「天の国は最後まで隠れたままで終わらない」とイエス様は教えてくださっているのです。天の国が完全に現れる時が来る。神の支配は完全に現れる。神の正義も完全に現れる。だから最終的な裁きは神様にお任せしなさいと語られているのです。怒りや恨みによって命を費やしてはならないのです。大切なことは宝を思うことです。そして、喜びに溢れながら、本当に捧げるべきことのために命を捧げ、本当に用いるべきことのために命を使って生きることなのです。