「ただひとりの善い御方」 2009年9月27日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マタイによる福音書 19章13節~26節 永遠の命を得るには  一人の男がイエス様のもとに来てこう尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。  この男は何者でしょう。22節では「青年」と呼ばれています。若い人のようです。また、「たくさんの財産を持っていた」(22節)とも書かれています。ルカによる福音書によれば、彼は最高法院に議席を持つ「議員」だったようです(ルカ18:18)。彼自身の言葉によれば、彼はユダヤ人として、モーセの律法については、「みな守ってきました」(20節)とのことです。ルカによる福音書では、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(ルカ18:21)と書かれています。そのような言葉に、彼の生い育ってきた家庭環境が伺えます。ユダヤの伝統的な堅実な家庭に育ち、敬虔な父母のもとにあって、幼い時から良い宗教教育を受けてきた人なのでしょう。  ある意味では、彼は人々が望む多くのものを既に手にしていた人でした。彼には若さがありました。財産もありました。地位も名誉も得ていました。良い家庭環境にも恵まれました。このような人を世の中では幸福な人と呼ぶのでしょう。しかし彼には、なお求めてやまない一つのものがありました。どうしても得なくてはならないものがありました。彼はそれを「永遠の命」と呼んでいます。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。  彼はわかっていたのです。この世で目にするもの、手にするものが全てではない。どんなに良いものであっても、それはみな過ぎ去るものだ。本当に良きものはまだ来ていない。まだ見ていない。まだ手にしていない。最も良きものはまだ先にある。本当の喜びをまだ私は知らない。本当の幸福をまだ私は知らない。神の全き救いを私はまだ味わっていない。それは天において神の御手によって備えられている。それを聖書は「永遠の命」と表現するのです。  その「永遠の命」を得るにはどうしたらよいのか。彼の魂はその切実なる問いをこれまで抱き続けてきたのでしょう。答えを求め続けてきたのでしょう。そして、そのような彼の前に、ナザレのイエスと呼ばれる人物が現れたのです。このラビは他のラビとは全く違う。この先生こそが答えを持っているに違いない。いつしか、そのような思いが彼を捕らえて放さなくなりました。そして、ついに彼は意を決して、イエスのもとを訪ねたのです。多くの宗教的な指導者たちが既にイエスに敵対し始めていた頃であるにもかかわらず、彼は勇気を振り絞って、一つのことを問うためにやってきたのでした。彼は尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。  しかし、驚いたことに、イエス様の口から返ってきたのは何ら特別な答えではありませんでした。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」(17節)。こんなことは、どこのラビだって言いそうなことです。しかし、この人は諦めませんでした。「どの掟ですか」と食い下がります。答えはそんな当たり前のことであるわけはない。何か特別な掟について言っているに違いない。そう彼は思ったのでしょう。しかし、次の言葉も、拍子抜けするほどに、ごく当たり前のことでした。「掟」と言えば誰でも真っ先に思い浮かべるのはモーセの十戒です。そんな誰でも思い浮かべるようなことしか言ってくれないのです。イエス様は十戒のいくつかと、レビ記の言葉を挙げただけでした。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」。しかし、この人は、なんとかして本当の答えをイエス様の口から引き出そうと粘ります。彼は言いました。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」。  この人は本当に知りたいのです。何をしたらよいかを知りたいのです。どんな善いことをしたらよいかを知りたいのです。聞いていて涙が出るほど真面目な人です。しかし、その人に対して、主はこう言われたのでした。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。イエス様の言葉はこの青年の肺腑をえぐりました。この青年は、それ以上もう主に問うことなく、悲しみながら立ち去って行きました。  「貧しい人々への施し」はユダヤ人の社会においても重視されてきたことです。律法を幼い頃から守ってきたこの人は、察するにこれまでも施しについて熱心にこれを行ってきたに違いありません。しかし、イエス様の言われたことは、明らかに全財産の処分と施しです。これはいくら律法に熱心である者にとっても、無茶苦茶な要求です。しかもイエス様は多くの財産を持つこの人に、あえてこのことを求められたのです。他のことならば、ある程度無茶な要求であっても従えられたかもしれません。しかし、よりによってこの裕福な青年にとって最も行うことが困難であると思えることを、あえて主は求められたのです。彼に対する意地悪でしょうか。いいえそうではありません。マルコによる福音書では、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(マルコ10:21)と書かれています。意地悪ではない。彼を愛するが故に言われたのです。では、イエス様の意図はどこにあったのでしょう。 「善いこと」ではなく「善い方」  そこで私たちはもう一度、青年とイエス様との対話の最初に戻りたいと思います。この人がイエス様に尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。それに対して、イエス様はすぐに「どうしたらよいのか」を答えておられないのです。その前に奇妙な一言が置かれているのです。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」(17節)。??変だと思いませんか。この人は「善いこと」について尋ねているのです。それに対してイエス様は「善い方」について語っておられる。「善い方はおひとりだ」と。明らかに食い違っているのです。しかし、この食い違いこそが決定的に重要なことを示しているのです。  この人は「善いこと」について尋ねているのです。為すべき「善いこと」に関心があるのです。なぜですか。その「善いこと」をもって「永遠の命」を得ようとしているからです。言い換えるならば、神様と取り引きをしようとしているからです。自分の行う「善いこと」をもって、いわば「永遠の命」を買おうとしているのです。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とは、そういうことでしょう。  しかし、「どんな善いことをすればよいのでしょうか」という問いは、ある程度、私たちにも馴染みがあるのではないでしょうか。神様との取り引き。身に覚えがあります。どういうわけか、往々にして私たちが思い描く神様は、やたらにケチ臭い神様なのです。「ただでは救ってやらないぞ」としかめっ面をしているような神様。そこでケチ臭い神様から何とか善きものを引きだそうと、取り引きをするのです。善い行いをしますから、願いを叶えてください。善い行いをしますから、幸福にしてください。そういうことをしているのではありませんか。その究極はこれです。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。  しかし、イエス様は、「どんな善いことをすればよいのか」を教えるために来られたのではないのです。神様との効果的な取り引きの仕方を教えるために来られたのではないのです。そうではなくて、ただひとりの「善い方」を指し示すために来られたのです。私たちが、ただひとりの「善い方」と共に生きるようになるために来られたのです。  神が「善い方」だということは、神は私たちを愛していてくださるということです。私たちに善いものを与えようとしていてくださるということです。私たちを善きところへと導き、善きものを豊かに与えたくて仕方がない。最終的にはどうしても永遠の命を与えたい。本当の喜び、本当の幸い、完全な救いを与えたくて、与えたくて、そのためにはどんなことでもする。独り子さえもこの世に遣わす。罪の贖いとして十字架にだっておかけになる。そういう神様だということです。そのような神様を私たちが知り、そのような神様と共に生きるようになるために、主は来られたのです。もちろんこの青年にも、自分の為しえる「善いこと」ではなくて、「善い方」の方に向いて欲しかったのでしょう。  だからあえて主は、この人にできそうもないことを言われたのです。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21節)。神様との取り引きを推し進めて行くならば、ここにまで至るのです。自分で買おうと思うならば、全額支払わなくてはならない。いや、たとえ全財産を売り払って、貧しい人々に施したとしても、それで永遠の命が買えるわけじゃない。ですからイエス様は「そうすれば永遠の命を得られる」とは言われませんでした。「そうすれば、天に富を積むことになる」と言われただけです。神の救いは人間の善い行いで買えるほど安物ではありません。善い行いと引き替えに買えるような安物の救いはもとより必要ではありません。  救いは「善い方」から来るのです。大事なのは、神様が「善い方」だと知ることなのです。「善い方」を信じることなのです。「善い方」と共に歩んでいくことなのです。この話の直前には、イエス様が子供たちを祝福したという話が出ていました。イエス様はその時こう言われました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」(14節)と。子供たちは神様と取り引きしないのです。「これだけのことを神様のためにしました」と胸を張らないのです。ただイエス様によって手を置いてもらって、神様に愛されていることを思いながら喜んでいる子供たち。目に見えるようではありませんか。こんな風に、私たちも「善い方」に信頼して、すべてを善意で満ち溢れている神の御業として受け取りながら、「善い方」と共に生きていくことこそ大事なのでしょう。  あの青年が悲しみながら立ち去った時、イエス様は弟子たちにこう言われました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(23-24節)。「金持ち」とありますが、これは「富んでいる者」という意味ですから、何も財産のことだけではありません。むしろこの人の場合、神様と取り引きができるくらい富んでいたのは、小さい頃から積み重ねてきた律法の行いと善行だったのでしょう。彼はそれを捨て去って、何も神様に差し出すものがない、あの子供たちのようになる必要があったのです。そこでこそ、イエス様がこう言われた言葉が意味を持つのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。そうです。神様にはおできになる。人間を救うことも、永遠の命を与えることもおできになる。そして、神様はそうしてくださる。神様は善い方だから。  本当に為すべき「善いこと」というのは、そのような「善い方」を喜びながら「善い方」共に生きる生活から生み出されてくるものなのです。本日の第2朗読にもありました。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5:1-2)。そのとき、ある場合には、イエス様が言われたように、全財産を処分して貧しい人々に施すということも起こってくるかもしれない。様々なものを主の御名のために捨てることも起こってくるかもしれない。そのとき、その「善いこと」は、もうそれは取り引きの代金ではないのです。