「喜びに満ちた未来を待ち望む」 2009年10月18日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マタイによる福音書 25章1節~13節 結婚式のたとえ  今日お読みしたのはイエス様がなさった一つのたとえ話です。その前の章からの続きです。終末に関する話です。未来の話です。24章と25章全体ですからかなり長い話になっています。私たちにとって重要なことだからです。過去についての話も大事です。しかし、未来についての話はもっと大事です。そうでしょう。私たちにとって重要なのは、これまでどうであったかということよりも、これからどうなっていくのかということだからです。そして、さらに重要なのは、最終的にどうなるかということでしょう。  しかし、実際どうでしょう。私たちは、ふと気付いてみると、過去の方が未来よりも重要であるかのように生きている。そちらに天秤が傾いているものです。過去に何が起こったかということ、あるいは今、何が起こっているかということが決定的な意味を持っているかのように生きています。それですべてが決まってしまったかのように思っているものです。しかし、野球で言うならば、私たちはまだ試合途中なのです。いわば五回の表です。たとえ四回の裏までに何失点していたとしても、重要なのは四回までのことではなくて、五回の表からの展開です。そして最終的にゲームに勝つかどうかの方がよほど重要なことではありませんか。どこかで逆転したらよいのです。9回が終了した時に勝っていればよいのです。  だからイエス様は未来の話をなさるのです。終末の話をなさるのです。イエス様が終わりの時の話をしているのは、まだ終わっていないからです。まだ途中だということです。だからしっかりと前を見る必要がある。そんな当たり前のことを、私たちはしばしば見失っているので、このようなイエス様の話を、私たちはやはりしっかりと聞かなくてはならないのだろうと思います。  そこで今日お読みしたイエス様のたとえ話ですが、ある意味でたいへん恐ろしいことが語られていました。朗読をお聞きになって、きっと物語の結末が強烈に印象に残ったことと思います。「その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた」(11-12節)。主から閉め出されて、しかも「わたしはお前たちを知らない」と言われる。これが最終的な結末だとするならば、実に恐ろしい話です。主から「知らない」と言われて捨てられるならば、それこそおしまいですから。  しかし、そこだけに注目して「恐ろしい話」として受け取るなら、それは正しい受け取り方ではないでしょう。というのも、この話にはこの話としての独自のポイントがあるからです。それは「結婚式」が舞台となっているということです。この点に注目しないなら、このたとえ独自のメッセージを聞き損なってしまうのです。  ここで語られているのはユダヤにおける結婚の祝宴です。その習慣はかなり私たちのものとは違います。しかし、いかなる民族であれ、結婚式ということに関して共通していますのは、それが「喜びの場」であるということです。聖書にしばしば結婚式の話がでてきますが、そこに共通しているのは「喜び」というテーマなのです。それは、私たちが考える以上に「喜び」なのです。それは当時一週間もお祝いが続けられたというところに象徴されています。苦しいことや辛いことが多い毎日だけれど、その時だけは皆が心から喜び楽しむことができる。それが結婚の祝宴だったのです。  イエス様はそのような「結婚の祝宴」を譬えとして取り上げて、私たちの未来を語ってくださっているのです。あなたがたの未来には大きな喜びがある。あなたがたを待っている大きな喜びは、喩えて言うならば婚宴だ。結婚の祝宴だ。あなたがたの人生はその大きな喜びに向かっているのだ。あなたがたはこの上なく大きな喜びへと招かれているのだ。そのような話をしてくださっているのです。  だから大事なのはこれからなのです。私たちが喜びに与るか、それとも与らないかは、過去の出来事によって決まるのではありません。ここからどのように生きていくのかによって決まるのです。イエス様の言葉によるならば、賢い者として生きていくのか、それとも愚かな者として生きていくのか、それによって私たちの未来は決まるのです。それによって大きな喜びに与ることにもなるし、あるいは用意されていた大きな喜びに与り損なうことにもなるのです。 賢さと愚かさ  たとえ話の内容に入っていきましょう。ここに「十人のおとめ」が出てきます。よく、この十人を花嫁と思っている人がいますが、彼らは花嫁ではありません。彼らは婚宴に招かれている人々です。多くの人々が招かれるのです。そして、招かれた人々には役割が割り当てられます。結婚式、またその祝宴のためには準備すべきことがたくさんあったからです。花嫁は十人の友達に花婿を迎える役目をお願いしました。それがここに出てくる十人のおとめです。  当時の婚宴は二つの祝宴から成り立っていたと言われます。まず花婿が花嫁の家に来て、前祝いとでも言うべき祝宴が行われるのです。続いて花婿は花嫁を自分の家に連れていき、そこで本格的な祝宴が行われるのです。そこで花婿がまず花嫁の家に向かって来たときに迎えに出る役割を担っていたのがこの十人です。時としては町外れにまで出て花婿を迎えるのです。時には花婿が遅くなることもあるでしょう。夜中になることもめずらしくはなかったと言われます。その時にはランプに火をともして待つのです。それが彼らの役目です。  繰り返しますが、彼らは全員等しく婚宴に招かれている人々です。既に席は用意されているのです。大きな喜びへと招かれている人たちです。しかし、同じように招かれていながら、その十人が二通りに分かれたというのです。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」と主は言われます。賢い者と愚かな者に分かれるのです。それはいったいどういうことでしょうか。続いて聖書はこう説明しています。「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた」(3-4節)。  「『油』は何を意味するか」「『ともし火』とは何を意味するか」。いろいろな解釈はありますが、別に気にしなくてもいいでしょう。大事なポイントは、油を用意していたか、油を用意していなかったか、という違いです。油を用意していた人たちというのは、どういう人たちでしょうか。それは、花婿が来るまで、とにかく遅くなろうとも、ひたすら待つつもりでいた人たちです。言い換えるならば、花婿を迎え、そしてさらに花嫁の家にまでお連れして、共に祝宴に与るその時までのことを考えて行動していた人たちだということです。祝宴までを視野に入れて、最終的に一緒に喜ぶことまで視野に入れて行動している。「賢いおとめたち」はそういう人たちです。  一方、他の五人は違います。その時、その場のことしか考えていなかった人たちです。夜だったからランプは持って出ました。しかし、先のことまでは考えていない。今どうであるか。今どういう状態にあるか。今何が必要か。そのことしか考えていない。「愚かなおとめたち」はそういう人たちです。  この世の人々は、目の前のことにうまく対応し、その時を上手に要領よく過ごす人を「賢い人」と呼ぶのでしょう。しかし、そういう意味での賢い人は、要領よく対処できないような厳しい状況が長く続くと案外脆いものです。例えば、福音書が書かれた時代、迫害の時代などには、そのような賢さは恐らく通用しないでしょう。それこそ対処しきれないような厳しい状況が長く続くわけですから。そのような時に、本当に必要なことって何ですか。希望を失わないことでしょう。未来に背を向けないことでしょう。多少待つことになろうとも、神が大きな喜びを未来に用意していてくださっていることを信じて生きていくことなのでしょう。多少遅かろうとも、花婿が到着する時が必ず来るんだということを念頭に置いて、未来に目を向けて、希望をもって前に向かって生きていくことなのでしょう。そのような人を示しているのが、この「賢いおとめたち」なのです。 選択するのはあなたです  そこで注目しなくてはならないポイントがあります。油を用意していた五人は他の五人に油を分けてあげなかった、ということです。人道的には明らかに間違っているでしょう。共に分かち合い、ランプの数を減らしてでも一緒に迎えたらよさそうなものです。  しかし私たちはここに、お互いの人生における厳粛なる一面を見なくてはならいのです。つまり、他の人に分けることができるものとできないものがあるということです。他の人に代われることと代われないことがあるということです。人の人生の道筋は他の人が代われないものなのです。代わりに生きることはできません。そして、最終的に神が用意した大きな喜びに与るのか、それとも与り損なうのかということも、他の人が代わりになれないのです。「代わりに祝宴に入ります」「代わりに祝宴の外に閉め出されます」ということはできないのです。  ならばこの「賢いおとめ」になるか「愚かなおとめ」になるかは、他の人や他の何かに決めさせてはならないのです。他の人が代わりに生きることができない人生を《あなたが》生きるのですから。そして、その結末をも《あなたが》引き受けなくてはならないのですから。だから自分で選ばなくてはならない。過去に捕らわれて後ろを向いて生きるのか。今のことだけを考えて一喜一憂して生きるのか。それとも前を向いて、未来に向かって、花婿を迎える時ーーそれは再臨のキリストを迎える時に他ならないのですがーーそこまでを視野に入れて、終わりまでを視野に入れて生きていくのか。それは本人が選ぶことなのです。  ある人は不幸な家庭環境で育ったかもしれません。ある人は悲しい幼少期を過ごしたかもしれない。しかし、そのことに未来を決めさせてはなりません。どう生きていくのかということを決めさせてはなりません。あるいは、誰かに傷つけられて、人生の大きな部分を損なわれた人がいるかもしれません。しかし、自分を傷つけた人に、自分の人生を決めさせてはならないのです。自分がどう生きていくかをその人に決めさせてはならないのです。先週一週間の間にも、もしかしたら不愉快なこと、ガッカリすること、あったかもしれません。しかし、その出来事に、今週からどう生きていくかを決めさせてはなりません。これからどう生きていくのかは、あなたが決めるのです。あなたが選択するのです。  もう既に祝宴の用意はされています。とてつもない大きな喜びが準備されて私たちを待っています。いつ喜びにあずかるのか。いつ花婿が来るのか。私たちは知りません。イエス様が言われるとおりです。しかし、いずれにせよ重要なのはこれからです。待つことが長くなっても、希望を放棄してはなりません。未来に背を向けてはなりません。「賢いおとめ」として生きて、最終的に必ず神の備えた大きな喜びに共にあずかりましょう。