「神が結び合わせたもの」 2009年10月25日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マルコによる福音書 10章2節~12節 イエスを試そうとして  ファリサイ派の人々が近寄って、イエス様にこう尋ねました。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。離婚することは許されていることか。それとも禁じられているのか。そんな話です。教えを請いに来たのでしょうか。いいえそうではありません。「イエスを試そうとしたのである」と書かれています。明らかに律法に関する議論に引き込んで、あわよくば言葉尻を捉えてやろうという悪意からの質問です。  「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。この質問の背景にあるのは旧約聖書に記されている言葉を巡る議論です。こういう言葉です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)。離婚の手続きについての定めです。問題はこの「恥ずべきこと」とは何かです。  シャンマイという有力な教師とその弟子たちは、この「恥ずべきこと」に当たるのは姦淫の罪であると考えました。姦淫の罪を女が犯した時は離縁することが出来る。それ以外は出来ない。それに対して、ヒレルというもう一人の有力な教師とその弟子たちは、よりリベラルな立場を採りました。「恥ずべきこと」には様々な事柄が入る。例えば、食べ物を焦したとか、容貌が悪いとかなども、離縁の正当な理由となると論じたのです。なんて酷いことを、と思いますか。しかし、それは当時の大真面目な議論だったのです。  その議論にイエス様を引っ張り込もうというのが質問をしたファリサイ派の人々の意図でした。しかし、この質問に対して、イエス様は直接答えられないで、むしろ彼らに問い返されたのです。「モーセはあなたたちに何と命じたか」と。彼らは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えました。先ほどお読みしました申命記二四章の一節のことです。  するとイエス様はこう言われたのです。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」。そして、律法の書の中に記されている他の言葉を引用されました。創世記の一章と二章に記されている言葉です。イエス様はそれを要約して語られます。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。」そして言われました。「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」  イエス様は彼らと同じ土俵に乗って離縁の議論に加わろうとはしませんでした。ファリサイ派の人たちが持ち出した申命記の言葉については、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言って一蹴してしまうのです。そしてイエス様は、どのような場合に離婚が許されるのかという議論の代わりに、そもそも結婚とは何なのかという話をされたのです。  「離婚の議論から結婚の話へ」。ここでイエス様がしていることを私たちは良く考えたいと思います。ここで重要なことは、単に結婚と離婚の話ではないのです。「離婚の議論」に象徴されている、あのファリサイ派の人々の世界に、私たちも同じように身を置くのか。それともイエス様がここで語られる「結婚の話」に象徴される、イエス様の世界に身を置くのかということなのです。そこにはどのような違いがあるのか、御一緒に見てまいりましょう。 離婚の議論に象徴される世界  そもそも「離婚は許されるのか」とか「どこまで許されるのか」という議論はどうして起こるのでしょう。それは離婚したい人がいるからです。ちなみに、彼らの質問には「夫が妻を離縁すること」しか出て来ません。妻が夫を離縁する場合は全く問題にならない、男尊女卑の時代を背景としています。今日とはずいぶん違います。そのような時代には、夫の都合による非常に身勝手な離婚が起こるものです。またそれを当然のごとくに考える男が少なくない。例えば、それこそ料理を焦がしただけで離縁したがる男がいる。自分の妻よりも美しい女性を見ただけで離婚したがる男がいる。だから、そのような離縁は許されるかどうかという律法解釈の議論が起こるのです。そういう男がいなければ、こんな議論は起こりません。つまり「離縁したい」という人間の思いの方が先にあるのです。まずそちらが先にあって、その思いを正当化しようとして聖書を引っ張り出そうとする。そこで議論が起こるのです。「このことを神は禁じてはいない。律法にはひっかからない」という律法の解釈についての議論が起こるのです。  そのように自分の思いが先にあって、それを正当化するために聖書を用いようとすることは、この離婚問題に限らず、いくらでも起こり得ると思いませんか。そして、どのような事柄でも、聖書を用いて正当化しようと思えば、いくらでもできるものなのです。  例えば、先ほど引用した申命記の言葉を考えてみましょう。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」とイエス様は言われました。実際、そうだったのです。これはもともと離縁にお墨付きを与えるための律法ではなかったのです。「あなたたちの心が頑固なので」と主は言われました。「心が頑固」とは悔い改めようとしないということです。そんな男の身勝手からの離婚問題が起こります。そのような離縁から妻が守られなくてはなりません。そのために、きちんと理由を記した離縁状を提出しなければ離縁ができないようになっていたのです。そもそもこれがモーセの律法の本来の意味です。しかし、そのような律法さえも、使おうと思えば解釈の仕方次第でいくらでも身勝手な離縁を合法とするために使えるのです。  律法を大事にしていないわけではありません。生活の隅々に至るまで律法を遵守した生活を打ち立てようとしている真面目な人々です。律法を守っていることを誇りに思っている人たちです。その意味で正しく生きていることを誇りに思っている人たちです。しかし、そのように自分は正しく生きていると自負している人にこそ、自分の行為の正当化は起こりやすいのです。本当はもともと自分の身勝手な都合やわがままから出たことであっても、様々な理由をつけて「これは正しいことだ」と言い張ってしまう。あるいは自分の憎しみや敵意や妬みから出たものであっても、様々な理由をつけて「わたしは正しいことをしているのだ」と言い張ってしまうのです。時には神の名さえも持ちだして、「これは正しいことだ。わたしは正しいことをしているのだ」と言い張ってしまうのです。  これが「離婚の議論」に象徴される世界です。しかし、そこに身を置くことは、本当はとても不幸なことです。そうやって生きているということは、とても不幸なことです。なぜなら、本当は解決しなくてはならない問題があるのに、そうやっている限り解決できないからです。本当は変わらなくてはならない自分がいるのに、そうやっている限り変わることはできないからです。古い自分のままで、いつまでも生き続けることになるからです。 神の恵みに応えて生きる  私たちは、そのようなところにではなく、別なところに身を置かなくてはならないのです。ですからイエス様はここで離婚の議論から身を引いて、結婚の話をなさったことに注目しなくてはならないのです。私たちが身を置くべきところは、この「結婚の話」に象徴される世界だからです。  先にも触れましたように、イエス様が引用しているのは、創世記1章と2章の言葉です。同じ律法の書の一部です。しかし、イエス様の読み方は全く方向が違います。「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった」と主は言われるのです。「神は」が先にあるのです。人間の行為の前に、神の行為があるのです。神様がしてくださっていることがあるのです。既に私たちが生きているこの世界そのものが神の御業なのです。神の愛から溢れ出た御業、神の恵みの御業なのです。そのような中に私たちは生きている。その一つの現れが、男がおり女がいるということです。それも人間が創り出したことではありません。神の恵みの御業です。  そして、「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体になる」が続くのです。これは創世記2章に出て来る言葉です。今日の第一朗読の少し後に出て来る言葉です。ユダヤ人ならば、それがどのような文脈にある言葉かを知っています。最初の女エバがアダムの一部から造られたという話に続いています。つまりエデンの園にアダムとエバがいるということ、そして出会っているということ自体が、神の御業なのです。ですから、イエス様はこれを「神が結び合わせてくださったもの」と呼ぶのです。これが結婚だと言うのです。  神の恵みの御業が先にあるのです。人間の行為は神の恵みに対する応答です。「神が結び合わせてくださった」という恵みに対する相応しい応答は、「人は離してはならない」ということになるのでしょう。イエス様が言われるとおりです。  しかし、その一方において神の恵みに応えていない人間の現実があります。それを聖書は罪と呼びます。罪深い人間の現実があります。本来正当化できない罪があるのです。ですから、現実には結婚が壊れてしまうことがあります。夫の罪によって、あるいは妻の罪によって、神の目から見るならば両者の罪によって、ということになるのでしょう。結婚の話だけではありません。この世界全体がすべてにおいて神の恵みに応答していないのです。神の恵みに背を向け、天地創造に始まる神の恵みを蔑ろにして投げ捨ててしまっているのです。神が光を照らしてくださっているのに、光の中を生きていくのではなくて、光に対して自らを閉ざして、暗闇の中を歩んでいる人間の姿がそこにあるのです。イエス様には、そんなこの世の有り様が映っていたに違いありません。  にもかかわらずイエス様は「天地創造の初めから」と神の御業を語られるのです。神の恵みの御業が先にあることを語られるのです。そして、神の恵みに応えて生きるように呼びかけられるのです。なぜなら神の恵みの御業は続いているからです。ストップしてはおられないからです。神はこの世を、私たちを、決して見捨ててはおられないからです。神の御業について語っておられた、イエス様の存在そのものが、神の恵みの御業なのです。そのことが十字架において、復活において、完全に現されることになるのです。  「結婚の話」に象徴されるイエス様の世界。それは神の恵みに目を向けて生きる世界です。神の恵みが先にあること、私たちは神の恵みの御業の中にあること、天地創造の御業だけでなく、既に現された救いの御業の中に私たちがあること、そこに目を向けて生きることです。先立つ神の恵みに応答して生きる世界をイエス様は示されたのです。  神の恵みが見えてくるならば、恵みに応えていない自分の罪も見えてきます。御心に適っていない現実も見えてきます。しかし、私たちは望みを失う必要はありません。私たちが自分を正当化しない限り、様々な理由をつけて、「わたしは正しいことをしているのだ」と言い張ってしまわない限り、変えられ得るのです。そこには悔い改めも生まれます。神の赦しを求める祈りも生まれます。神の助けを切に求めるようにもなります。現実に神の御業が起こっていきます。解放と癒しの御業が起こります。そうやって人は変えられていきます。自分自身だけでなく、周りも変えられていきます。これが「結婚の話」に象徴される世界です。私たちはそこにこそ身を置かなくてはならないのです。