「まだ世の終わりではない」 2009年11月15日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マルコによる福音書 13章5節~13節 なんとすばらしい建物でしょう  今日お読みしましたイエス様の言葉は、オリーブ山で神殿の方を向いて座っておられた時に言われた言葉です。なぜイエス様がこのようなことを弟子たちに言われたのか。そこまでの話の流れを初めに簡単に見ておきましょう。  その少し前に、イエス様は弟子たちと一緒に神殿の境内におられました。そこで弟子の一人がこんなことを言いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(1節)。確かにそれは実に壮大な建物でありました。紀元前20年にヘロデ大王によって修復・増築が開始された神殿は、それから数十年を経たイエスの時代においてもまだ工事が続いていたほどです。ヘロデは神殿工事の石材を運ぶために千台の車を用意し、熟練した職人一万人を選んで当たらせたとも言われます。それほどの建物ですから、普段はエルサレムに住んではいない弟子たちが改めてそれを見て感嘆の声を上げたのも無理はありません。  しかし、イエス様は弟子の言葉を聞いて、こう言われたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)。直訳するとかなりまどろっこしい表現となりますが、要するに、重なった石が一つも残らないほどに完全に崩壊するということです。  これを聞いた弟子たちは、「そんな馬鹿な」と思ったことでしょう。それはむしろ完成へと向かっているのであって、完成したらそれこそ未来永劫に残るとさえ思えるような建物であったからです。しかし、それは完全に崩されることになると主は言われました。そして、イエス様は正しかったのです。紀元70年、このマルコによる福音書が書かれた少し後に、威容を誇ったヘロデの神殿はローマ軍によって徹底的に破壊されることとなりました。まさにイエス様の言われたとおりです。  しかし、その時にこれを耳にした弟子たちは、まさかそんなことになろうとは夢にも思っていないのです。もし仮にそのようなことが起こるとしたら、それこそ世の終わりに違いないとさえ思えた。ですから弟子たちは、もし神殿が崩壊するような終末的な出来事が起こるとするならば、その前兆としてどんな徴があるのかと尋ねたのです。世の終わりには徴が現れる。それがユダヤ人の信じてきたことだったからです。  彼らは言いました。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(4節)。そこでイエス様はオリーブ山から神殿を眺めながら、彼らに語り始められました。それが今日お読みしたイエス様の言葉です。 人に惑わされないように気をつけなさい  弟子たちは、「どんな徴があるのですか」と尋ねました。しかし、イエス様がまず答えて言われたのは、「人に惑わされないように気をつけなさい」ということでした。  弟子たちの目には、ヘロデの神殿が崩れるようには見えませんでした。しかし、実際には、崩れそうにないものが瞬くまに間に崩壊することがあることを、私たちは知っています。建物ばかりではありません。同じように、絶対的な権力を誇っていた国家の体制が崩壊することがある。絶対に倒れるように見えない大企業が崩壊することもあります。絶対に安全であると思っていた社会の制度が崩壊することもあります。そのようなことが実際に起こってきたことを私たちは知っています。  あるいは、家庭の崩壊ということも起こる。夫婦の関係が崩壊する。初めから壊れると思って結婚する人などいないのです。まさか壊れるとは思っていない。あるいは信じていた親友との関係が崩壊する。そのように信頼を寄せていた人間関係が崩壊することも起こります。あるいは一人の人間についても同じことが言えます。大きな挫折によって揺るぎない自信が見るも無惨に崩壊してしまうことがあります。絶対に自信があった自分の健康が、ある日突然に崩れてしまうということも起こります。「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と主が言われたことは、現実には様々な形で現れます。信頼を寄せていたもの、確かに見えていたものが、それほどに崩れてしまうことがあるのです。  しかし、そのような時こそ、「人に惑わされないように気をつけなさい」という主の言葉を思い起こさなくてはなりません。崩壊するはずがないようなものが崩壊する時、そこに様々な形で偽メシアが現れるのです。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる」と主が言われたとおりです。「こっちに来なさい。こちらに救いがあるよ」と言って手招きするのです。あるいは主が言われるように、「わたしがそれだ」と言って惑わす。「わたしがそれだ」というのはユダヤ的な表現で「わたしが神だ」という意味です。そのように、偽物の神様が近寄ってくるのです。神ならぬ者が神の顔をして近寄ってくる。神ならぬ者が「救ってあげましょう」と言って現れて、神を信じていたはずの人をさえ、神から引き離すようなことが起こるのです。そして実際、何かが崩壊した時には、何にでも考え無しに飛びつきたくなるものです。だからイエス様は言われるのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」と。人に惑わされないためにはまず自ら神に向かわなくてはなりません。  さらにイエス様は言われます。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない」。そうです。大事なことは「慌てない」ことです。「慌てない」ためにはどうしたら良いのでしょう。何を考えたら良いのでしょう。イエス様は言われるのです。「まだ世の終わりではない」(7節)。どんなに大きなことが起こったとしても、どんなに足もとからすべてが崩れていくような経験をしたとしても、私たちがそこで自分に言い聞かせなくてはならないのです。「まだ世の終わりではない。慌てるな」と。そして実際、世の終わりではないのです。  「世の終わり」というのは神様が終わりにされる時です。神様が終わりになさる時までは、いかなる意味においても「終わり」ではないのです。それは終わりに見えたとしても、まだ途中経過なのです。イエス様はそれを「産みの苦しみ」と表現なさいました。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」(8節)。  「産みの苦しみ」は私には経験がありませんが、相当苦しいということは分かります。しかし、どんなに苦しくても、それは「終わり」ではありません。それは途中のことです。その先があるのです。苦しみの先に喜びがあるのです。命の誕生の大きな喜びがあるのです。そして、さらに言うならば、イエス様は「産みの苦しみの《始まり》」と呼びました。「始まり」ならば、次第に苦しみは増大していくということです。苦しみが増大していくならば、普通は「悪い方向に向かっている」と考えるのでしょう。しかし、産みの苦しみについては、私たちはそうは言いません。産婦は陣痛が大きくなってきたときに、「ああ、私の状態は悪く悪くなっているのだ」と言って絶望することはないでしょう。苦しみが大きくなればなるほど、新しい命の誕生が近づいていることを知っているからです。大きな喜びの時が刻一刻と近づいていることを知っているからです。それが産みの苦しみです。それと同じだとイエス様は言われるのです。 福音が宣べ伝えられねばならない  そのように、どんな時にも、何が崩れたとしても、イエス様が言われたことを私たちは忘れてなりません。人に惑わされないこと。慌てないこと。「まだ世の終わりではない」。ならば、すべては途中経過に過ぎないこと。たとえ、今、苦しみの中にあったとしても、それは大きな喜びへと向かう産みの苦しみであると知ることです。  そのようにして私たちは自分を保たなくてはなりません。自分のことに気をつけていなくてはなりません。なぜなら、それは単に私たち自身のためではないからです。それはこの世のためであり、他の誰かのためでもあるのです。他の誰かの救いのために、私たちには為すべき務めがあるのです。  イエス様はその時に目の前にいた弟子たちについては、次のように言われました。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(9-10節)。社会の混乱があろうが、地震があろうが、飢饉が起ころうが、さらには迫害の中に置かれようが、弟子たちには為すべきことがあると言われるのです。惑わされたり、慌てたりしている場合ではないのです。その時にこそ、為さねばならぬことがある。それは福音を宣べ伝えることです。「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と主は言われたのです。  信頼していた確かなものが次々と崩れていくのを目にしている今の時代にも同じことが言えるでしょう。それこそ「世の終わり」を思わざるを得ない現実が確かにある。しかし、人々が悪い知らせしか耳にしていない世の中であったとしても、いや、そのような世の中であるからこそ、良き知らせ??「福音」を私たちは告げ知らせなくてはならないのです。希望を持てない世界であるからこそ、希望を語らなくてはならないのです。神は独り子をお与えになるほどにこの世を愛してくださった、と。神は私たちをそれほどに愛していてくださる。私たちを愛していてくださる神は、私たちの罪を赦し、私たちを必ず救ってくださる。産みの苦しみの向こうに命に満ちた大きな喜びを神は備えていてくださる。そのことを知っている私たちが、希望に満たされて福音を告げ知らせなくてはならないのです。「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と主は言われるのです。  さらに主はこう言われました。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(11節)。神が語られるのです。人間を通して神が働かれるのです。  神様は、そのように私たちをも用いてくださいます。この世界に何が起こったとしても、私たちの人生に何が起こったとしても、神は私たちを用いることがおできになるし、そのことを望んでいてくださいます。だから、人に惑わされてはなりません。慌ててはなりません。「まだ世の終わりではない」。すべては途中経過です。今見ているのは産みの苦しみであることを忘れてはなりません。そして、さらに言うならば、あの弟子たちのような迫害に遭うことはなくても、人から不当な苦しみを強いられることはあるかも知れません。しかし、私たちは負けてはならない。悪い知らせに満ちたこの世界に、良き知らせが伝えられねばなりません。神は私たちをそのために今この時代にあっても用いてくださいます。