「あなたがたはすべて光の子」 2009年11月29日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 テサロニケの信徒への手紙 5章1節~11節 大事なのは「今」  教会の暦では今日から待降節(アドベント)に入ります。教会暦においては一年の初めということになります。しかし、この季節はむしろ「終わり」について思い巡らす期間とされてきました。「キリストの再臨」を思う季節です。キリストが世の終わりにおいて再び来られる。私たちが使徒信条において、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と言い表しているとおりです。すなわち、そこで最終的に正しい神の裁きが行われる。そのような意味における「終わり」に思いを向けるのがこの季節です。  一般的に言いまして、何かの「終わり」について考えます時、第一に重要なこととして考えられるのは「それがいつか」ということではありませんか。例えば学生には「卒業」という、ある意味での「終わり」があります。卒業という「終わり」が四年後であるのか、それとも数ヶ月後であるのか、その違いは決定的な意味を持っていると言えるでしょう。この教会のK神学生はあと四ヶ月で神学校を卒業します。「終わり」は四ヶ月後です。T神学生は二年四ヶ月後です。神学生にとって、あと四ヶ月後に卒業であるか、あと二年四ヶ月後に卒業であるかは大きな違いであるはずです。このように、「終わり」について考える時、「それがいつか」はとても重要なことなのです。あるいは、学生だけではなく、誰にでも同じように訪れる「死」という人生の「終わり」についても同じことが言えるでしょう。これも「それがいつか」は極めて重要なことでしょう。それが一週間後であるのか、数ヶ月後であるのか、それともあと何十年も先と考えられるのか。それは大きな違いをもたらす、決定的に重要なことであるはずです。  同じように世の終わりについても、「それがいつか」は極めて重要なことに思えます。少なくとも、世の終わりが現実味を帯びてきたならば、あちらこちらで「それがいつか」ということが話題になろうかと思います。それは何年後なのか。何年の何月何日なのか。様々なことが語られるようになるでしょう。実際、二十世紀の終わりにも、「世の終わりがいつか」ということが話題に上るようなことはありましたから。そのように「それがいつか」は重要であると考えられる。ところが「世の終わり」ということになりますと、どうも話が違ってくるのです。今日お読みした箇所においてパウロはこう言っているのです。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません」(1節)。  私たちは「その時と時期がいつかは大事だ」と思うのですが、パウロはそう言わないのです。なぜか。「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」(2節)と彼は言うのです。盗人は前もって電話して「これから入りますよ」なんて言いません。予期しない時に突然やってくる。キリストの再臨もそれと同じ。突然やってくる。だから「その時と時期について」は当然書き記すことはできません。また、その必要もないのです。突然やって来るということだけを知っていれば、それで十分だとパウロは言っているのです。「その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません」と。  実際、今日の福音書朗読においても、イエス様がこう言っておられましたでしょう。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(マルコ13:32)。この世の新興宗教やカルトの類は「何年何月何日に世の終わりが来る」というようなことをまことしやかに語るのです。しかし、イエス様はそうは言われません。「わたしは知らない」と言うのです。別に世の終わりがいつかなんて知らなくていいと思っているのです。そんなことよりも、もっと大事なことがあるからです。主はこう言われるのです。「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(同33節)。  そうです。「それがいつか」なんてことは本当は大して重要なことではないのです。重要なのは「今」なのです。今、どうであるか。今、私たちはどう生きているのか。今、わたしと神様との関係はどうであるのか。今、目を覚ましているのか。それとも眠りこけているのか。そのことの方がよほど重要なのです。イエス様は、「気をつけて、目を覚ましていなさい」と言われる。もちろん、「今」目を覚ましていなさい、ということです。  そのように、「今、わたしはどういう状態にあるのか」ということを省みる季節、それがこのアドベントです。逆に言えば、「今」が重要だからこそ、「それがいつか」はあえて伏せてあるのです。「それがいつか」が分からなければ、必然的に「今」が重要になってきますでしょう。だから、イエス様も「知らない」と言われる。パウロも「書き記す必要ない」と言う。「終わり」は突然来る。いついかなる時も「終わり」となり得る。そのことさえ分かっていれば良いのです。そうすれば「今」を大事にできるから。  しかし、考えて見れば、世の終わりだけでなく、先ほど触れた、人生の終わりである「死」という「終わり」についても本当は同じことが言えるのでしょう。先ほどは、「それが数ヶ月後であるのか、それともあと何十年も先と考えられるのか。それは大きな違いをもたらす、決定的に重要なことであるはずです」と申しました。でも、本当は「それがいつか」ということは分からないのです。いつでも「終わり」となり得るのです。先日ここで葬儀がなされたKさんのことを考えても、そう思います。Kさんは先々週の日曜日には元気に一緒にここで讃美歌を大きな声で歌っていました。そして、その翌日にはこの世の人生を終えていたのです。いついかなる時も「終わり」となり得る。イエス様が世の終わりについて言われたことは、ある意味ではすべての「終わり」に当てはまるのです。  ならばやはり、いかなる「終わり」を考えましても、大事にしなくてはならないのは「今」なのでしょう。アドベントは、その意味で「今」にしっかりと目を向ける時でもあります。往々にして私たちは、いつまでも過去にばかり目を向けていつまでも過去に縛られていたり、あるいは先のことばかり考えて思い煩っていたり、そんなことばかりして「今」を大切にできていないものです。本当に大事にしなくてはならないのは「今」なのです。問題にしなくてはならないのは、「今、どういう状態にあるのか」ということなのです。特に私たちの人生において決定的に重要なのは、「今、神様との関係はどうなっているのか」ということであるはずです。なぜなら、世の終わりを考えましても、死という終わりを考えましても、最終的にすべてを判断し、最終的に正しく裁かれるのは神様なのですから。 昼の子として目を覚まして生きる  であるならば、イエス様が言われる「目を覚ましていなさい」というのは、特に神様との関係において「目を覚ましていなさい」ということでしょう。今日お読みした箇所において、パウロはこう言っています。「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(4-6節)。  「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません」と言われています。また「あなたがたはすべて光の子、昼の子だ」と言われているのです。私たちが今、ここにこうしているということは、光の子、昼の子としていただいたのだ、ということなのです。あるいは光の子、昼の子として生きるように招かれているのだ、ということです。  実際、そうでしょう。さ迷っていた放蕩息子がまことの父のもとに帰ってきて、キリストの十字架のゆえに罪を赦していただいて、まことの父である神様との交わりに入れていただいたのです。本来ならば、これまでの数え切れないほどの過ちと罪を責められ、裁かれ、最終的に滅ぼされても仕方のないような私たちであるのに、今、こうして神の憐れみによって、神様に顔を上げて生きる生活へと導き入れていただいたのです。毎週ここに集まって礼拝を捧げながら、日々主と共に歩む生活を与えていただいたのです。今日お読みした9節以下でもパウロがこう言っているとおりです。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(9-10節)。  そのように、暗闇の中にいた私たちが、十字架の恵みにあずかって、罪を赦していただいて、救いにあずかる者としていただいて、まさに神の眩い光の中を、昼の光の中を主と共に生きる者としていただきました。そのように今、罪を赦された者として神と共にあるならば、日々、そのように神と共にあるならば、「終わりがいつか」は問題ではありません。終わりにおいて、キリストの再臨において、本当の意味で神にお会いすることとなっても、まったく問題ないはずではありませんか。キリストとお会いする時を待ち望んできた人にとっては、むしろ救いの日となるはずです。  しかし、もちろん逆のことも言えるわけです。本来は光の中にいるはずなのに、眠りこけて光の中を生きる生活を失っているならばどうですか。「終わり」の時は、神とお会いする時は、まさに予期せぬ危機的状況として訪れることになるでしょう。イエス様はこれを主人と僕に喩えられました。主人を愛して仕えている僕にとっては主人がいつ帰って来たとしてもそれは大きな喜びですが、主人のことを忘れて眠りこけている僕にとっては、主人が帰って来ることは危機的状況を意味します。  そのように、大事なのは今です。今、神との関係において眠りこけていないことが重要なのです。ですからパウロはこう言うのです。「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(8節)。  「信仰・愛・希望」の三つが出てきました。この三つ合わせて、すなわち神と共にある生活です。これらを武具のように、それこそ「身に着け」なくてはならないのです。「終わり」を考えますならば、これが本当に身に付いているかどうか、今、きちんとその身に着けているかどうかは、実に大事なことであるはずです。いつの間にか外してしまって、その辺に転がしているようなことがあってはなりません。長いこと転がしておいたので埃をかぶってしまっているようなことがあってはなりません。「昔は信仰熱心でした」というような言葉ほど教会において意味のない言葉はありません。問題は、今、自分の身に着けているかどうかなのです。  しかし、これは単に各個人の問題ではありません。パウロは11節でこう言っているのです。「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」(11節)。人が信仰者として生きるには、他の信仰者の助けを必要とするのです。神との関係において目覚めているためには、他の目覚めている人の励ましが必要なのです。信仰における成長のためには、成長しつつある他の人の助けが必要なのです。信仰と希望と愛を自分の身に着けるためには、手を貸してくれる他者の手が必要なのです。  皆さん、どうぞ信仰の友を見つけてください。単なる「良いお友達」ではなくて、信仰を励まし合うことのできる友を求めてください。そして、自分がそのような友となることを求めてください。誰かの信仰生活を励まし支える友となってください。「光の子、昼の子」として生きるということは、ただ単に個人の問題ではなくて、教会の問題なのです。互いに励まし合うということが具体的になされる教会となっていかなくてはならない。頌栄教会が、そのように互いに励まし合い、お互いの向上に心がけ、互いを建てあげていく教会として成長していけるように、このアドベントの期間、特にそのことをも覚えて祈ってください。