「あなたは愛されています」 2009年12月13日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 ヨハネの手紙(1) 4章7節~12節 ここに愛があります  「ここに愛があります」。先ほど読まれた聖書箇所に書かれていました。10節の言葉です。「ここに愛があります」。ーーどこにですか?その同じ節には「(神が)御子をお遣わしになりました」と書かれています。「御子」と言えば「イエス・キリスト」です。神がこの世にイエス・キリストをお遣わしくださいました。「ここに愛がある」と聖書は語っているのです。  もうすぐクリスマスです。イエス・キリストがこの世に誕生したお祝いです。わたしどもの教会では、毎年キリストの聖誕劇が演じられます。キリストが生まれた場面が、かわいらしい子供たちによって、実にほのぼのと演じられます。しかし、皆さん、ご存じのように、この世に生まれたキリストは十字架にかけられて死ぬことになるのです。クリスマスの時には、そのことを忘れてはなりません。もちろん今日お読みしたヨハネの手紙を書いた人も分かっているのです。神がこの世にイエス・キリストをお遣わしになったということは、ただ単にこの世に生まれたということではなく、十字架の上で死ぬことをも意味していたということを。そのようなキリストを指して言うのです。「ここに愛がある」と。  考えて見れば、世にも奇妙な話です。十字架刑というのは、手足を釘付けにして、ただ磔にして死ぬのを待つという、世にも残酷な死刑です。その光景は、本来ならばグロテスク以外の何ものでもないはずです。どう考えても、本来、「神の愛」とは結びつかない。そのような惨たらしい十字架を指して、ヨハネは「神は愛である」と言うのです。「ここに神の愛がある」と叫んでいるのです。そうなりますと、私たちは改めて神の愛が何であるかを、考えねばならなくなります。  そもそも「愛」とは何でしょうか。「愛」とは美しい言葉です。しかし、同時に、私たちは、この「愛」というものが、決してきれい事では済まない人間の現実と深く結びついていることも知っています。実際には多くの人が、愛のゆえに傷つき、また苦しんでいるのです。自分を愛してくれる人を愛するのは易しいことです。しかし、実際には、常に自分に好意を持ってくれる人に囲まれて生きているわけではありません。それは家庭の中であっても、職場や学校においても同じです。そのような中で本当に人を愛して生きようとするなら、苦しむことは避けて通れないのです。  「愛」について考えますとき、すぐに心に浮かぶ有名な聖書箇所があります。コリントの信徒への手紙(1)13章です。結婚式でしばしば読まれます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(1コリント13・4-7)。結婚式でこの言葉を聞きますと、多くの人は感動するのです。  しかし、単に感動だけでは済まされないことにやがて気づくことになります。忍耐強くあること、情け深くあること「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」パウロがそこで言っていることが、極めて大事になってくることが分かってきます。現実にはこの部分において、どれだけ多くの人が苦闘をしていることでしょう。夫婦の間で、親子の間で、あるいは恋人同士であっても、ある時は傷だらけになり、ある時には泥だらけになることなしには成り立たないのが、ここで言われている「愛」なのです。  ですからもう一方において、今日の人々は、むしろそのような関係を避けて通ろうとして、簡単に切れる軽い関係ばかりを追い求める方向に向かっていると言えます。できれば本名ではなくて、ハンドルネームで付き合えて、ややこしくなったら簡単に関係が切れる状態に身を置きたい。簡単に消えることができる。いなくなれる。他の人のために重荷や責任を負う必要もないような身軽な関係。そんな絆、そんな交わりしか持てなくなっている時代でもあります。残念ながら結婚でさえそのようなものとなりました。両者にとって不都合になったら簡単に解消できる結婚。離婚の可能性を前提とした結婚。結婚前から離婚時についてはどうするかを取り決めて結婚するようなことも今日決して珍しくないと言います。  しかし、人間はそうであるかもしれないけれど、神様は私たちにそのような仕方で関わろうとはなさらなかった。それがここに書かれていることです。神は私たちを「愛された」のです。どこまでもどこまでも愛されたのです。簡単に切ってしまおうとはされなかったのです。私たちが背を向けていても愛されたのです。私たちが神に無関心であっても、神は愛されたのです。私たちが神を馬鹿にしていた時でも、神は私たちを愛されたのです。私たちが神を愛さなくても、神は私たちを愛されたのです。ヨハネがここで言っているのはそういうことです。4章10節をもう一度ご覧下さい。こう書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」(10節)。  私たちは神を愛しませんでした。そのような私たち人間を、神は愛された。私たちが今、ここにいるということは、その愛の現れに他ならないのです。なぜ私たちは今、ここにいるのですか。なぜ神を賛美し、礼拝する場所にいるのですか。神は私たちを切り捨てなかったし、見捨てなかったからでしょう。神は私たちを赦し、私たちを完全に受け入れてくださったのです。  赦して受け入れるということは、先にも言いましたように、それは苦しみを伴うことなのです。愛して赦して受け入れようとするならば、その愛は決して口先だけのきれい事では済まされないのです。それは神御自身が泥をかぶり、痛みを引き受けることに他ならないのです。それは神が傷だらけになることに他ならなかったのです。ヨハネがイエス・キリストの十字架に見たのは、まさにそのことだったのです。  もちろん、実際にキリストが十字架にかかられたその時には、分からなかったことでしょう。しかし、後になり、その場面を思い起こす度に、彼の目の前に描き出されるその姿は、まさに傷だらけになりぼろぼろになりながら愛を示された神の姿だったのです。そこに見た苦悩は、罪に汚れた人間を赦し、愛し、受け入れるための苦悩に他ならなかったのです。それが十字架なのです。彼はその愛を見たのです。だからヨハネはこの手紙において、いわばその十字架を指し示して叫んでいるのです。「ここに愛がある!」と。そこで血だらけになって十字架につけられているキリストを指さして叫んでいるのです。「ここに愛がある、ここに愛があるのだ」と。 互いに愛し合いなさい  そして、ヨハネはさらにこう言うのです。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(11節)。「愛し合うべきです」という表現は、「愛することを負っている」というのが直訳です。負債がある。借りがあるということです。私たちは神さまに対して莫大な愛の借りがあるのです。  「ここに愛があります」とヨハネは言いました。その愛を知ったなら、神に愛されていることを知ったなら、今度は私たちが神を愛して生きる生活へと踏み出していくことになります。それが信仰生活です。信仰生活という名の一生は、いわば莫大な愛の借りがある人が、とても返しきれるものではないのだけれど、せめて愛の僅かばかりを神にお返しして生きていく、そんな恩返しの一生に他なりません。  しかし、そのように神に愛をお返ししようとする時に、神は私たちに言われるのです。「もしあなたが返そうと思うなら、わたしにではなく、あなたの兄弟に、あなたの隣人に返しなさい」と。それゆえに、ヨハネはこう言っているのです。もう一度お読みします。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(11節)。負っているのは神に対してです。返すのは隣人に対してです。隣人に対して返すことが神にお返しすることになるのです。  「わたしは愛の債務者である」という意識を新たにしましょう。その思いを抱いて日々生きることができたなら、私たちの家庭生活、社会生活、教会生活はどれほど大きく変わることでしょう。私たちが他者に対して抱く怒りや不満は、主に自分が正当に報われていないという意識から来るのです。わたしがこれだけしているのに報われていない、と。しかし、それらすべてが「負債を返している」ということならばどうでしょう。「わたしは負債のごく一部さえも返しておりません」と言うしかない。わずかばかりでもお返しできたことをむしろ喜べるのではありませんか。そもそも私たちが与えるより遙かに多くを私たちは神様から受けているのです。  やがて私たちの人生が終わった時、主の御許において自らの人生を振り返って、私たちは驚きの声を上げるに違いない。私は愛されていた。本当に愛されていた。あなたが私を愛してくださっていたその愛は、私の想像を遙かに超えるものだった、と。そしてきっと思うことでしょう。私はあなたにお返ししていたつもりだったけれど、あなたによって向かわせられた互いに愛し合う交わりもまた、あなたの大きな愛の現れに他ならなかった、と。