「行動を起こそう」 2009年12月27日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マタイによる福音書 2章1節~12節 喜びにあふれた人たち  「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。そう書かれていました。これは「非常に大きな喜びを喜んだ」という表現です。それこそ今まで経験したことのない喜び。今まで何かがあって嬉しかったというのとは次元の違う喜びに溢れていたということでしょう。単に長旅の目的地にやっと着いたという程度の喜びではありません。考えてみてください。メシアを訪ねて長い旅をしてやっと辿り着いたのは何の変哲もない家だったのです。最初に訪ねたヘロデの王宮とは大きな違いです。しかも、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を訪ねてはるばるやってきた彼らがそこで対面したのは、なんとも平凡な庶民の母親と幼子だったのです。当て外れもいいところではありませんか。目的地にやっと着いたという程度の喜びなら、簡単に吹き飛んでしまったに違いありません。しかし、彼らに与えられた「非常に大きな喜び」はそのようなものではありませんでした。ここに短く描かれているこの学者たちの姿は、そのことをはっきりと示しています。  まず聖書が伝えているのは、彼らがひれ伏して幼子を拝んだということです。しかも、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたと言うのです。ページェントの一場面としては何の違和感も抱かずに見ることができる一つの情景です。しかし、現実的にどう考えてもおかしいでしょう。彼らは占星術の学者たちです。占星術師というのは、古代オリエントの世界ではけっこう高い地位にあった人たちなのです。星の運行が人間の運命を支配していると考えられていた世界ですから。その運命を読み解くことができる人たちというのは、相当な支配力を持っているのです。彼らが対外的にも重んじられている人たちであったことは、簡単にヘロデ大王に謁見できたことからも分かります。そんな彼らが、ごく普通の幼子を前にしてひれ伏して礼拝したというのです。  さらに言うならば、彼らは夢のお告げに従って、ヘロデとの約束を反故にして、別の道を通って帰ったというのです。地域の支配者からの依頼を足蹴にするような無礼なことは、通常はしないのです。ヘロデが相当怒ったことからも分かります。一方、ヘロデの所に帰っていたならば、相当に優遇されたことでしょう。多くの褒美ももらえたことでしょう。なにしろヘロデが欲しがっている情報を手にしているわけですから。しかし、彼らは単純に夢のお告げに従って別な道を通って挨拶もせずに帰ってしまったのです。  そもそも星に導かれて来たという話自体が不思議なのですが、ある意味ではそれ以上にあり得ないようなことがここには描かれているのです。そのすべては一つのことを示しています。彼らは単にこの世の出来事に触れているのではないということです。そうではなくて、神の御業が現れている出来事に、この学者たちは確かに直面しているのだということです。ですから、「非常に大きな喜び」もまた、単にこの世からの喜びではなくて、彼らをもってして通常ではあり得ないような行動を取らせてしまうほどに、それほどに特別な、天からの喜びに他ならないということです。そうです。彼らは旅の果てに、大きな喜びに満たされた。彼らが東方において占星術師として生きていた時には知り得なかった、天からの喜びに満たされたのです。  この東方からの学者たち。なぜここに出て来るかと言えば、これはやがてイエス・キリストを信じる異邦人たちの予表なのです。ですから、その中に私たちもいるのです。彼らの姿は私たちの姿でもあるのです。私たちもこの喜びにあずかるようにと召されているのです。そうしますと、改めてこの一年間を振り返って考えさせられます。どうでしょう。私たち、この世のありきたりの喜びではなく、どれほど天からの喜びにあずかってきたでしょう。どれほど天からの喜びに満たされて行動してきたでしょう。  想像してみてください。この学者たちが天の喜びに満たされていなくて、この世のことしか考えられない人たちだったらどうでしょう。星によって一つの家が示された時に、彼らが家の見窄らしさにしか目がいかなくて「なんだ、これがメシアの家か、貧相だなあ」って言っていたらどうでしょう。あるいはマリアと幼子を見て、「こんな平凡な家の子に黄金は乳香はもったいないなあ」と呟いていたらどうでしょう。この場面が台無しだと思いませんか。しかし、皆さん、現実には私たちは案外そんなことばかりしているものです。この世のことにしか目がいかなくて、この世の人がすることにしか目がいかなくて、腹を立てたり、失望したり、不平を言ったり、いいことがあって喜んでみたと思えば、次の日には喜びが完全に吹き飛ばされていたり。そんなことばかりしているものです。  もうそのようなことは十分ではありませんか。もうやめにしませんか。天からのものを求めましょう。天からの御業、神の御業に触れることを求めましょう。イエス様のもとにある天からの喜び、信仰生活の喜びを求めましょう。そして、天からの喜びを豊かに味わわせていただいましょう。天からの喜びに満たされているならば、長い旅路の果てに貧相な家が待っているような、そんな報われない労苦も決して嘆きや呟きにはならないはずなのです。そのように喜びに満ち溢れる心をもって、持てるものを献げつくし、心からひれ伏すことができるような私たちとなることを求めていこうではありませんか。 具体的な行動に移すこと  そのために重要なことが、この場面から見えてきます。それは、求めを心の中に留めておくのではなくて、具体的な行動に移すことです。彼らは、メシアについて“関心を持っている人”として、東方に留まっていることもできたのです。実際に、彼らは関心をもって色々と調べることはできたはずです。彼らはありとあらゆる書物に当たり、メシアの星について調べることもできたことでしょう。また、バビロニアには多くのユダヤ人たちが居住していましたから、ユダヤ人の王として到来するメシアについても彼らを通じて言い伝えを調べることはできたでしょう。相変わらず、占星術師としての生活を続けながら、そのまま関心を持つだけで一生を送ることもできたのです。  しかし、彼らはそこに留まりませんでした。彼らは実際に立ち上がって旅に出たのです。最初の一歩を具体的に踏み出したのです。長い旅も最初の小さな一歩から始まります。それは自らが決断して踏み出すのです。  そう言えば、聖書の中には、実際に旅立った人の話がたくさん出てきます。アブラハムもそうでした。モーセに導かれたイスラエルの民もそうでした。イエス様のたとえ話の中の「放蕩息子」もそうです。放蕩息子は自らの悲惨な生活の中で悩んでいただけではありませんでした。「彼はそこをたち、父親のもとに行った」(ルカ15:20)と書かれているのです。ある東方教会の指導者がこんなことを書いています。「信仰は考えることによってではなく、実行することによって得られる。言葉や考察ではなく、体験が神を教えてくれる。窓を開けない限り、新鮮な空気は部屋に入れられない。日光浴をしない限りは、肌は黒くならない。信仰を得ることも、同様なことである。教父たちの言っているように、ただ楽に腰かけて待っているだけでは、私たちは目標に達することはできない。」ーーなるほど、その通りです。  間もなく新しい年を迎えます。来る年は、具体的な一歩一歩を大切にしていきましょう。神を求める思い、キリストを求める思い、天からのものを慕い求める思いを、具体的な形にしていきましょう。できることがあるはずです。彼らの具体的な旅の先に大きな喜びが待っていたように、私たちが与るべき大きな喜び、天来の喜びも、私たちの具体的な一歩一歩の先にあるのです。  ところで彼らを導いたのは東方で彼らが見た一つの星でした。もちろん、星が意志をもって彼らを導くはずはないので、星を用いて導いたのは神様です。しかし、彼らは神の導きの星を見失ってしまったようです。エルサレムに来て彼らは尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)。尋ねているところを見ると、この時には星は見えなくなっていたのでしょう。  しかし、このことによってヘロデやエルサレムの人たちにも、メシアの誕生のことが伝えられることになりました。その結果、ヘロデやエルサレムの人々とあの東方の学者たちとの対照的な姿が浮き彫りにされる形となったのです。  地図で見ますと、エルサレムからベツレヘムは、さほど離れてはおりません。せいぜい10キロメートルぐらいの距離です。占星術の学者たちが、今からそこに向かおうとしていることも知っているのです。しかし、律法学者たちは彼らに同行しようとはしませんでした。もちろん、ヘロデもです。メシアの誕生について聞いた時、ヘロデは不安に思ったと書かれています。エルサレムの人々も同様でした。しかも、ヘロデは不安になっただけでなく、そのメシアを捜し出して殺そうとさえ企んでいるのです。  彼らはなぜ同行しなかったのか。なぜ不安になったのか。なぜメシアを抹殺しようとしたのか。なぜですか。理由は単純です。そのままでいたいからです。変わらないでいたい。今いるところに留まりたいからです。結局、人を天から遠ざけ、天来の喜びから遠ざける最大の妨げは、「そのままでいたい。変わらないでいたい」という思いなのです。  ですから逆に言えば、「変わりたい」と思えるようになることは、喜ばしいことなのです。様々な試練によって、あるいは苦しみを経てでも、「変わりたい。このままでいたくない」と思うようになったとしたら、それは幸いなことなのです。そこから本当の旅は始まるからです。  東方の学者たち、一時的に星を見失ったのかもしれません。迷ったかもしれません。しかし、彼らは全く心配する必要はなかったのです。ヘロデと違いますから。彼らは今いるところに留まりたいと思っていませんから。星を見失っても、迷っても、とにかくキリストを求め続けて、また次の一歩を踏み出そうとしているかぎり大丈夫なのです。そういう人に対しては、再び星が現れるのです。導きが現れるのです。神様はちゃんと導いてくださる。彼らが歩み出すと星は先だって進んでいきました。そして、ついに彼らは大きな喜びに溢れたのです。  来る2010年。私たちが今まで味わったことのないような、天からの大きな喜びにあずからせていただきましょう。メシアのもとでしか味わうことのできない、大きな喜びにあずからせていただきましょう。求め続けましょう。求めを具体的な形にしましょう。長い旅も小さな一歩から始まります。具体的な第一歩を主に導いていただきましょう。