IV章 伝道に命をかける
Chujoh Gisuke On Risking One's Life For Missions In Korea

Authored by Rev. Chujoh Gisuke, Japan
Translated by M.A.F., Georgetown, IN, USA
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中條儀助様, 千葉県習志野市鷺沼4丁目8番9号

韓国教会繁栄の理由:日本の伝道者が体験したことの四章中條儀助

IV章 伝道に命をかける

1   プロテスタントの伝道史

・    成就しなかった西欧教会

o   閔庚培 「韓国キリスト教会史」新教出版社、一二八‐一二九頁

o   関栄二・尹南重編著 「韓国の教会」クリスチャン新聞社、四八‐四九頁

「韓国の宗教史の始まりは、中国との交渉を通して以外、説明することはできな い。儒教や仏教も、中国を経て導入されたのであり、カトリック教の場合も例外 ではなかった。最初に始められ、何回となく企図されながらも、結局、長期的か つ体系的な宣教事業には、手をつける事ができなかった。

西欧型プロテスタント教会は、教派型のアメリカ的キリスト教とは異なって、国 家的範囲に拡大され、教会の有機的連結の面が強調された。したがって、共同体 の神学と教会論的信仰の意識が強かった。

ヴェルトブレー = はじめて、韓国に新教が伝えられたのは、一六二七年、オランダ 人のヴェルトブレー(Jan Janse Weltevree 朴燕)である。彼はウベルケルク(Ouwerkerck)船 に乗って日本国へ行く途中、嵐に合って漂流し、同乗の友と慶州に上陸した。そ のときは逮捕されたが、後に韓国女性と結婚し、韓国に永住した。その間宣教は していない。

ハメル = 一六五三年ごろ、オランダ人ハメル(Hamel)一行の船が済州島に漂流して きた。彼は長老派教徒として、韓国人の宗教生活に深い関心を寄せたが、実質的 には、何もキリスト教的影響を残さなかった。

ギュツラフ(Karl Friederick August Gutzlaff) = 彼はオランダ宣教会所属の宣教 師であった。韓国を訪れた時には、東インド会社所属の船舶の通訳、医師、船牧 の資格があった。彼が韓国の海岸を訪れたのは、一八三二年の厳しい風が吹いて いた朝のことであった。彼はそこで逢う人に、中国から持てきた、漢文聖書を与 えて主の祈りを漢文で教えた。

しかし、彼の宣教は商易と深く結びついてのものだった。

トマス(Robert Jermain Thomas) = 彼は一八四〇年九月七日、英国ウェールズのリヤ ヤーダーで、会衆派教会の牧師の子として生まれ、ロンドン大学で文学士を取得 し、さらにニュ・カレッジで神学課程を修了し、一八六三年ロンドン宣教会の宣教師とし て中国宣教へ。中国の北京で韓国人冬至使(毎年、冬至のころ、中国に送っていた 使臣) に出会い、韓国に対し関心をもち、韓国宣教への使命に燃えはじめ、つい に一八六五年九月四日に韓国の西海岸紫羅馬に到着した。

そこで二ヵ月半生活し、その後、一時中国に帰っている。

しかし、彼の韓国宣教への情熱は消えず、一八六六年七月、アメリカ商船シャー マン号に乗り込んで、平壌に上陸しようと計画したが、当時、鎖国政策を とっていたので通商を要求する船長との間で衝突が生じ、船員たちが沿岸の住民に 暴虐を振るったこともあって、ますますエスカレートして、アメリカ船が暗礁に 乗りあげた折、住民たちが船を焼き払い船員たちに剣を抜いて襲いかかって、皆殺 しにした。トマスは、韓国人兵士に聖書を差し出しながら、惜しくも世を去った。 その時、彼が持っていた聖書は最初に韓国に伝来した聖書だった。

トマスの殉職に立ち合った一兵士の甥に当たる李栄泰は、後の聖書翻訳に大きな 労力をつくした。実に神のはかり知れない深遠な摂理を見ることができる。

ロストマッキンタイア = この二人は、スコットランドから宣教師として派遣され、 満洲で宣教し、韓国語聖書翻訳について大きな貢献をした。その聖書翻訳に協 力したのは徐相崙(ソナンユン)である。彼は聖書翻訳と同時に、満洲に散在する 同胞に、また、さらに危険の多い韓国へも聖書を頒布し、韓国の伝道史上に業蹟 を残している。

・   最初の宣教師

o   閔庚培、前掲書、一四二‐一五二頁

o   関栄二・尹南重、前掲書、四九‐五二頁

北米長老会

▽アレン(Horace N. Allen 安連)

長い間、鎖国政策を堅持していた韓国は、一八八二年「韓米修好条約」が締結さ れてから、ソウル(京城)にイギリスやアメリカの公使館をつくった。この公使館 つきの医者として、アレンが一八八四年九月二〇日に仁川に上陸し、同月二二日 にソウルにある西洋公使館に着任した。彼は、北米長老教会から派遣された医療 宣教師で、一時は中国で働いていたこともあった。

ソウルに着いたアレンは、韓国がまだ西洋文明や、キリスト教を白眼視している ことを知って、自分が宣教師であることを、しばらく隠して医療に専念した。

神の奇しき摂理によって、一八八四年一二月四日に「甲申政変」が起こった時、 開化勢力の刀で重症を負った事大勢力の中核だった閔泳翊が、アレン医師の医術 によって助けられた。この出来事によって、彼は高宗と閔妃をはじめ、皇室から 信頼されることとなり、王室つきの侍医官に任命された。そして、彼の宣教活動 の前途に明るい展望が開けた。この事件が、将来の韓国伝道のきっかけともなっ た。だからこの出来事こそ、神の摂理だといえよう。

▽アンダーウッド (Horace G. Underwood)

監理教会のアペンゼラー夫妻と共に一八八五年四月五日(イースターの日)、仁川 に上陸したプロテスタント最初の宣教師である。彼は一八五九年七月一九日、イ ギリスのロンドンに生まれ、一三歳の時アメリカに移住し、帰化してアメリカ人 となった。ニューヨーク大学とオランダ革命教会の神学校で学び、一八八四年 七月二八日、北米長老教会宣教師に任命された。彼は韓国へ行く途中、日本で二ヵ月 間滞在し、その間、日本に行っていた韓国人李樹廷と出会い、韓国語を学習しな がら、伝道への備えをした。特に注目すべきは、李樹廷が訳した「マルコによる 福音書」を携えて韓国に入ったことである。

時に、彼は二五歳だった。その後、韓国宣教史上に輝く働きを果たしている。

米国監理教会 (メソジスト教会)

▽アペンゼラー夫婦(Henry G. Appenzeller)

アペンゼラー夫婦は、アンダーウッドと共に一八八五年四月五日に仁川に上陸し たプロテスタント最初の宣教師である。長老教会で受洗した後、エキュメニカル 精神の問題で、一八七九年四月二一日に監理教会へ転回した信仰遍歴の持ち主で ある。フランクリン・マーシャル大学と、ドルー神学校で学んだ後、外国宣教師 として任命された。韓国上陸後、幾多の困難に会いながら、貞洞第一教会や培村 堂を創立し、巡回伝道や聖書翻訳に多大の貢献をした。

▽W・スクラントン (William B. Scranton)

一八八五年五月三日に彼の母(Mary F. Scranton)と共に入国し、長老派のアレン 医師と共に医療事業に従事しながら、韓国宣教の道を開いた。特に母メリー・ス クラントンは一八八七年に梨花学堂を創設し、韓国最初の女子教育に貢献し、そ の足蹟をしるした。

オーストラリヤ長老教会

一八八九年一〇月にデービス(J.H. Davis) 牧師と彼の妹(Miss M.T. Davis)と共 に上陸し慶尚南道で韓国宣教に取り組みはじめたが、天然痘にかかって入国一年 で病死(殉職)している。その後、オーストラリヤから宣教師が継続的に派遣され、 慶尚南道一帯の農村教会と婦女子教育のために貢献している。

イギリスの聖公会

聖公会による宣教は、ウエストミンスターで、宣教師主教として任命されたコル フ(J.Corfe)博士が六人の聖職者と二人の医師を従え、一八八九年に開始している。 一八九一年九月三〇日には仁川の済物浦に韓国最初の聖公会会堂が完成している。

カナダのバプテスト派宣教師

韓国浸礼教会の創始者は、マルコム・フェンウィック(Malcom C. Fenwick)である。 彼は、カナダのトロント大学のYMCAから派遣 されたものの、完全に独立したバプ テスト宣教師であった。一八八九年一二月八日に仁川に上陸し、ソウルで一〇ヵ 月間、韓国語や生活習慣を学び、その後、黄海道の松川で除丙朝と一緒に伝道し、 浸礼教会の基礎を築いた。彼は、中国内地宣教会のハドソン・テーラーに見習い、 韓国巡回宣教会を組織し、福音的伝道方式で不眠不休の努力をつづけている。

カナダ長老教会宣教師

カナダ人として最初に韓国にきたのは、マッケンジー(William John McKenzie)で ある。教会から、公式に派遣された宣教師ではなく、個人の資格で、少ない伝道 費用を携えて、一八九三年一〇月に韓国に入国している。ソウルで数ヵ月滞在し た後、黄海道の松川へ行き、韓服を着、韓食して宣教したが、一八九五年七月二 三日に病死した。それを知らせるため松川教会の一老信徒がカナダの長老教会総 会に手紙を出した。その手紙によって、かなだ長老教会総会は、一八九七年に韓 国宣教を決議し、フット(W.R. Foote)牧師、マックレー(D.M. McRue)牧師、グリー アソン(B.G. Grierson)博士の三名を派遣した。彼らは一八九八年九月八日に韓国 に上陸し、咸鏡堂を中心に、カナダ長老教会の宣教が始まった。

聖潔教会(ホーリネス)の宣教

韓国に聖潔教会が正式に創立されたのは、一九〇七年である。日本の東洋宣教会 の聖書学院を卒業した金相俊、鄭楙の二人が帰国、武橋洞に一軒家を買い求め「福音 伝道館」を開設、伝道を始めた。

英国の救世軍による宣教

韓国での救世軍の開戦は、一九〇八年一〇月、英国ロンドンにある本営からホガー ト(R. Hoggart)がソウルに来て、救世軍営を創立した時から始まった。そして、貧 困と社会悪への対決、純粋な福音の育成、というスローガンのもとに、積極的な 貢献を韓国社会に残している。

2 初期の宣教理念と方策

韓国教会復興について論ずる時、初代宣教師たちの宣教政策、宣教方法を語らな ければならない。それは、今日の韓国教会復興に多大な影響を残したからである。 日本の教会成長を考える場合にも、大きな参考になると思う。

・   ネビアス宣教理念と方策

o   閔庚培、前掲書、一七七‐一八二頁

o 7nbsp; 関栄二・尹南重、前掲書、五五‐五七頁

ジョン・ネビアス(John Nevius)は、中国のチーフーで宣教活動していたが、一八 九〇年、韓国で伝道している宣教師たちが、夫人とともに招いて、彼の宣教理念と 宣教方式について、原則の指導を受けている。この宣教原則は「ネビアス方式」 と呼ばれ、韓国のみか中国、いな全世界に多大な影響を与えている。

   (a) ネビアスの宣教理念

この理念は、イギリスの有名な宣教師であり、教会活動家であったヘンリー・べ ン(Henry Venn)が、一八六〇年代に、宣教師の社会生態や心理、宣教地の自然、歴 史、社会・・・・・・等々の研究と資料分析によって「自給、自立、自主」の三 大原則を作り出したものである。

この理念・原則に、ネビアスは、韓国で強力な自立性と範囲な巡回宣教、それに 聖書に対する圧倒的な強調をかかげて、その政策(方策)とした。

   (b) ネビアスの具体的な宣教方策

o   宣教師一人ひとりの福音伝道と広範な巡回。

o   自立宣教、つまり信徒一人ひとりが他者への聖書の教師となるべきこと。

o   自立の政治、つまり信徒は選択した、俸給を受けない指導者の下で、伝道と教 会経営をすること。

o   自立補給、つまりすべての教会の建物はその教会の信徒たちによって用意され、 教会が組織されると同時に、伝道者の俸給を支給しはじめること。

o   体系的な聖書研究と、すべての活動で聖書中心を貫徹すること。聖書研究は、 必ず大勢集まってすること。

o   聖書の教えに従って、厳格な生活訓練と統治を行うこと。

o   他の教会や機関とは、協力と一致のために努力を続け、最小限、他の機関とは、 相互の合意が得られるように、地域を分割して伝道すること。

o   地域とプログラムを分割した後は、互いに決して干渉しないようにすること。

o   しかし、経済やその他の問題においては、常に幅広く互いに助け合う精神をも つこと。

・   長老派の「宣教公会」での宣教政策

o   閔庚培、前掲書、一八〇‐一八二頁

一八九三年一月二八日に長老教会の政治形態をとるミッションの公議会が開かれ、 二つの政策が決定された。ネビアス宣教方策を基盤とし、さらに原則に合わせた拡 大をし、韓国での宣教政策を決定した。これを要約すると下記のようである。

   (a) 公議会で決定した宣教政策

o   上流階級よりも、勤労階級を伝道対象とする。

o   婦女子に伝道し、キリスト者子女を教育する。

o   キリスト教教育は農村で、初等程度の学校を経営し、若い人々を訓練し育成す る。

o   ここから、将来の韓国人教役者を輩出させる。

o   このために聖書を与え、神の言葉によって人間を改宗させる。

o   すべての宗教書は、外国語でなく、韓国語で書かなければならない。

o   宣教師の援助を受けるのをできる限り減らし、自給、自立する教会・キリス ト者を作る。

o   伝道は韓国人自身が行い、宣教師は伝道者の信仰育成に尽力する。

o   医療宣教師は、診療や投薬だけでなく、患者の心に触れ、キリスト者の模範 を示す。

o   病院で治療を受けた人は、彼らの故郷と連絡し、医療宣教師から受けた愛と、 信仰に見習って、家族伝道、故郷伝道の門を開くようにする。

   (b) 宣教地の分割政策

この宣教公会議が残した第二の業蹟は宣教地域を分割し、いろいろある宣教機関 が無駄な努力や重複をさけ、不必要な浪費と競争をなくし、韓国全体に"見合的に 分割"するプログタムであった。その分割は

o   南長老教会は全羅道、忠清道

o   オーストラリヤ長老教会は慶尚南道

o   カナダ宣教会は、咸鏡道

o   北長老教会は平安道、黄海道、慶尚南道

・   他教派の宣教政策

o   閔庚培、前掲書、一八二‐一八三頁

ネビアス型の宣教政策は、長老教会だけのものであり、監理教会、聖公会、浸礼 会は、他の宣教政策をとった。しかし間接的には、ネビアス方式の原則にしたがい、 ある面で長老教会よりも実践的でもあった。

   (a) メソジスト ( 監理)教会の宣教政策

図式化され、文書化された政策規定はないが、特色を要約すると下記のようであ る。

o   巡回伝道することを原則とした。

o   教育の分野では、長老教会よりも、はるかに高次元であった。具体的にはア ペンゼラーは来韓四ヵ月目に、学生二人で学校を始めている。

o   女性の宣教師が多かったため、婦女子に対する貢献が大きく、韓国女性の地 位向上のために寄与した。

o   当時はシャーマニズムが全盛だったが、婦人聖書伝道旅行を積極的に行い、 シャーマニズムに打ち勝つ戦略を遂行した。

o   教会の非政治化を敢行するため、画策しようとしていた。

   (b) バプテスト (浸礼) 教会の宣教政策

バプテストの最初の宣教師である,M・フェンウィックの宣教理念と宣教方策はH・ テーラに見習い、聖霊の力による不眠不休の巡回伝道だった。その結果「韓国人へ の宣教は、宣教師よりも韓国人自身の証言によって、進めることこそ大切である」 ことを悟った( 閔庚培、前掲書、一四九頁、二四六‐二四八頁)。

3   復興の具体的方策

・   復興会 (東水原長老教会)

韓国教会復興の秘訣は、信仰復興会(リバイバル・ムーブメント)である(韓国の すべての書籍や牧師、教会指導者の一致した見方)。

歴史的には一九〇三年、在韓宣教師の中に起こり、一九〇七年に、信仰復興宣教 が、全国的に広がった。日帝の支配が、徐々に厳しくなっていく最中だったので、 一度に数百人も、集まることはできなかったにもかかわらず、教会だけは数百人 という集まりができた。各教派の信者が、復興会に参加し、交わりを深め、一体 感を強め、当然のことながら民族主義的思想がつちかわれた。政治的色彩が強い けれども、改宗者が増え、教会は成長した。

当時の復興会の中心的内容は、聖書研究(バイブル・スタディ)だった。聖書の言 葉を、そのまま暗誦することである。そして、単純素直に、その言葉のように生活 する。この姿は今でも変わっていない。一般の信徒は聖書を非常によく知ってい て、復興会のときに、聖書の引用する個所を忘れたり、誤って言うと、直に会衆 の中から正確な応答がなされる。

だから、ある宣教師は「世界に大災害が起こり、すべての聖書が焼失してしまっ たとしても、韓国の信者が、五人集まれば聖書を書き直すことができる」(李章植、 前掲書、六頁)と語ったぐらいである。しかし、戦後(一九四五年)は少しずつ変化 してきている。信仰復興というよりは教会成長の方に重点を移行させてきている。 その目的は、教会を大きくするために不信者(未信者)を改宗させることである。

信者の信仰復興と同時に、量的に教会を大きくし、力強くするためである。なぜ、 このようになったのかといえば、日帝の植民地化や、韓国の南北戦争(朝鮮動乱)に よって教会が焼失、崩壊し、人々が飛散し、さらに政治的や神学的に分裂し、教会 自体が弱く、小さくなったからである。この混乱、破壊された教会の再復興が、最 大の問題であり、祈りの課題であった。

教会復興は「聖霊充満」「病気のいやし」「預言をする」・・・・・・というよ うな特別な賜ものの、強調であった。このことのために牧師たちは、山の中や祈祷 院で必死に祈り、特殊な体験を得て下山し、教会復興、つまり信者を増やし建物 を拡張した。このような状況の中から「復興師」が生まれ、その働きは教会復興 に大きな影響を及ぼした。復興会にも神学的背景や動機はある。最初、キリスト の再臨を強調したが、朝鮮動乱後は、キリストの体なる教会の復興や成長に、神 学的重点を置くようになった。神学校で現代神学や実践神学を学んで、伝道、牧 会をしても、教会は発展しない。

したがって、この復興会様式を取り入れる。そのように教会復興はあたり前の神 学や方法では不可能なのである(李章植、前掲書、七頁)。ここに、韓国教会から生 まれた「復興の神学」があるのだ。

私は、今まで、韓国伝道に四〇数回行った。そのうちのほとんどは、復興集会で あり、復興師としての働きであった。私の牧会している津田沼教会も過去に、七日 間(月曜日から日曜日)まで連続の特別伝道集会をやったことがあるが、現在では、 金・土・日の三日間か、土・日の二日間、春と秋に行っている。

韓国教会では、一般的に復興会は月曜日の夜から始まり、金曜日の朝に終わる。私 も韓国で、このような集会を二〇回以上も行ってきた。韓国の復興会で、私が何を 見、感じ、また行い、指導したか、最近の場合を記したい。

教会は、韓国基督教長老会、東水原教会(金鐘成牧師)である。人口四〇万人の 都市で、東部には新興住宅地がある。ここに金牧師が、四年前に開拓伝道を始め た。アパートのショッピングセンターの二階を借り、集会と幼稚園を始めたが、現 在は二五〇人の会員と、八〇人の園児がいる。神の恵みと教会一同の犠牲の献金 によって、今の集会所から、五〇〇メートルはなれた場所に一九八七年春、一二 〇坪の土地を購入した。そして、一九八七年九月からは、その土地から、やはり 五〇〇メートルはなれた所(現集会所と反対側)に第二会堂を借りて集会を始めた。

私がおこなった復興会は、一ヵ月もたたない始まったばかりの会堂であった。

第二会堂の主日礼拝(二〇名前後)を午前九時半から行い、説教が終わるとすぐに、 第一会堂の主日礼拝へ行っている。第一会堂の礼拝には、二〇〇名ぐらい参加して いる。第二会堂には李伝道師一家が住み込んでおり、新しくできたビルの四階全部 を借りている。そのフロアは、一〇〇人は入る礼拝堂と、二LDKの伝道師用住宅と がある。

今回の復興会は「伝道開始記念聖会」だ。信徒の信仰復興と同時に、近隣の人々 への伝道が課題である。

▽ 一九八七年九月二八日 (月)

午前七時、わが家を出、いつものようにバスと電車で成田空港へ。午前一〇時発 の飛行機で、ソウル金浦空港へ。一三時二〇分(韓国では、サマータイム)に着き、 出国手続、税関後、東水原教会の金牧師と車で水原市へ午前四時に着く。すぐ第 一会堂でオリエンテーション。そして、集会を行う第二会堂に行く。そのあと、 執事宅で夕食。ここに金牧師夫妻、李伝道師夫妻のほか、基督教長老会の中堅牧 師が一〇人以上集まっていてくれて、祈りとともに歓迎してくださった。

韓国教会で、いつも感ずることは特伝の講師や、復興会の講師のお世話(食事、 宿泊)は、すべて教会の長老か執事の教会員が行う。牧師夫人にはさせない。それ だけでなく毎食必ず、牧師夫妻を招く姿勢がある。そして、最高のもてなしをす る習慣である。だから牧師夫妻は、ただ集会のみに集中すればよい。また私が行 う集会には、教団、教派を超えて、牧師や伝道師の多くが出席してくださる。し たがってたくさんの友人ができるうえ、それらの教会から、復興会をしてくれる ように依頼されるのである。しかし、実際、私が訪ねられるのは、依頼された数 のうち四分の一ぐらいである。

この夜の聖会は、午後八時に始まった。イザヤ書四三章一 ‐五節から「恐れる な!」と言うテーマで、八時三〇分 ‐ 一〇時二〇分まで宣教する。会堂一杯の 会衆、一〇〇人ぐらい。ここでは未信者や他教派の信者が、多くきているのでそ れを配慮しつつ、使徒の信仰復興を基盤とする話をした。

集会での特色は、同じ讃美歌をくり返し何回も歌う。手をたたきながら、その手 を上げたり、下げたり、体全体で歌っている。全員が一緒に声を出して、天も破れ んばかりの祈りを何回もする。私も約二時間のメッセージの中で、讃美、祈り、 唱和して聖書を読むのを何回もする。一方通行的になってはならない。説教者と通 訳と会衆は、一体であるように配慮しながら宣教をつづけた。

聖会後は、一〇数人の牧師とたちと話し合い、祈り合ったりして、一二時まで過 ごす。この時間は、私にとってはかけがえのない時である。メッセージによって、 集会が祝されないと、牧師たちはすぐ帰ってしまう。恵まれると、みんな残って 私に接近し、自分の牧会している教会にも、来るようにと誘う。

日本では考えられないほど、牧師の権限がある。この夜も一番大きな教会の牧師 が、私に、今週の金曜日夜の徹夜祈祷会に、来るように依頼してきたので、関係者 一同に了解してもらうことにした。

韓国では、あらゆる分野で同じことがいえ、大きいもの、力あるもの、上にいる もの・・・・・・が優先する社会だ。私の考え方は、それとは全く反対である。強 いものよりも弱いもの、大きいものよりも小さいもの、多いところよりも、少な いところ、大都会より農村へ・・・・・・という考え方である。しかし、韓国に 行ったときはできる限り、その国の習慣・風俗・考え方に従うようにしている。 しかし、それは私にとって苦しいことでもあり、良心がうずくこともある。

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